薄昏の子ら、ダンピール(3)|Living Dead the Sanctuary

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 03
 
「ブレイク!」
 エリファの大声が荒れた夜の駐車場に響き渡る。ブレイクは猛スピードでアスファルトを蹴り、ぐんぐんとエリファたちから離れていく。その背後には、蠢く衣をばたつかせた四つ目の化けものがそのシェパードを追っていた。
 化けものが金切り声で相手の背中に飛びかかった。その鋭いかぎ爪は、突然ブレイクが急旋回したため、あわや犬の毛先をかすめるだけに終わったが、その代わりにアスファルトを引っ掻いて火花を散らせた。
 ブレイクの身のこなしはレーシングさながらの俊敏さだった。放置された車両の間を右に左にと走り抜け、自身を追う怪物を翻弄する――だが、憎悪にたぎる四つ目はシェパードを逃しはしなかった。異様なほどの速度で犬の背後に追いつき、その馬鹿力で影に隠れた車ごと引き裂こうとする。ワインレッドのクライスラー車が前にひっくり返って、後部から他の車両に着地し、派手な音でお互いを圧し潰した。
 エリファは口を両手で覆って悲鳴を上げた。飼い犬が車に巻き込まれ無残に殺されたのだと思ったのだ。しかし悲鳴はすぐに飲み込まれる。潰れた車体の隙間から這い出るものがあった。ブレイクはもがいてその場から逃げおおせたようだったが、その後はまた車の影になってしまい、犬の姿を見失った。
 怪物が別のSUV車に文字通り飛びついて、半開きのドアをめきめきと千切り、狂ったように車を揺さぶる。ブレイクは生き延びているが、追い詰められていた。車の中に隠れて八方塞がりになっている。化けものは軋んだような雄叫びを上げ、長い腕でシート一席を馬鹿力で剥ぎ取り、駐車場に投げ捨てた。シェパードが獰猛に吠えたてる。暗い車内で、殺すか殺されるかの格闘が始まった。獣の荒い息遣いと激しく動く影が、犬の必死の抵抗を物語っていた。
 四つ目の怪物は自身の体が大きすぎて中へ侵入するのが不可能だとわかると、憎しみの目をぎらつかせ、しゅーと冷気を口から吐きだした。纏っている蠢く衣が裾の方から真っ二つに裂けていく――次の瞬間には布がぐるっと捩れて奇怪な形状に変化した。捩れの先端に化け物と瓜二つの顔が生えている。それが牙を剥き、狭い車内へと突進した。
 ギャン、とシェパードが叫んだ。
「何やってんの!」呆然としていたマックスが、別の恐怖を見つけて慄いた。エリファがよろめきながら半壊したGTーRに向かって走っている。彼は慌てて追いかけてエリファの腕を掴むが、力いっぱいマックスを振り解こうとした。その間も犬はギャンギャンとなき喚いている。
「耐えられない」振り向いたエリファの顔は青ざめていたし、ほとんど泣いていたが、恐怖に打ちのめされるほどのやわな目つきをしていなかった。
 彼女はあの勇敢な犬の元へ行こうとしているのだとマックスは気づいた。飼い犬の危機を放っておけないのだ。気持ちはわかるが、それにしても、限度というものがある。狼狽えるマックスを置き去りにして、エリファはGTーRの扉を開ける。
「馬鹿げてるよ、このオンボロはもう壊れてる!」
 ぐぉんとエンジンが唸りを上げた。
 マックスは扉を閉めさせまいと間に入ってフレームにしがみつく。
「頼むよ。このまま逃げるって言って。あんたの兄貴が一緒に逃げろって、そう言ってたんだ。あんたの兄貴が正しいよ。だってあんなの、どうにもならないよ。リンジーだって――」その時、彼は店で起こったことを思い出した。暗闇ではぐれたリンジーを探し混乱している時。棚に挟まれた長い通路の奥で、突然現れた黒い影。何故、ステイカーに詰問された時に上手く言えなかったのだろう? 記憶がばらばらに砕けていた。まるで自分が分裂したみたいに……マックスは首を振って言い直した。「リンジーだって、どうなったかわからないんだ。飼い犬のためにそんな恐ろしいことをしないでよ。兄貴の言うことを聞くべきだよ」
 エリファのパニック症状はまだ治っておらず、呼吸は乱れたままだったが、彼女はステアリングを固く握りしめて前方だけを見据えている。エリファは鼻を無造作に拭って言った。「お兄ちゃんは当てにならない」すぐに泣きそうな顔をした。「ごめん、本当はこんなはずじゃなかった。でも私が車を走らせれば化けものはあなたに気がつかない」
「頑固者だね! そうじゃないんだ、あんたは巻き込まれただけ!」だんだんと腹立たしくなってきた。状況が全く理解できないのに、自分に責任の一端がある。「ああわかったよ。こんな時に一人で逃げるなんてできるわけないでしょうが? ほら、鍵を開けるんだ!」まくしたてながらマックスは助手席を開けて素早く乗り込んだ。「犬を引き受けることしかできないよ。チャンスは一度だけ」
 エリファは頷いて、できる限り静かに車を移動させた。見た目ほど状態は悪くないらしく、車両はスムーズに動いている。ある程度のところでエリファはハンドブレーキを引いた。
「位置についた。つかまっていて」
 眠っていた獣が首を起こすように、エンジンの回転数が上昇した。
 マックスが唾を飲み込んだ次の瞬間、クラッチが高速のトルクにかみついた。重力加速度によって体がシートに引っ張られる。ジャックラビットスタートで飛び出したGTーRはさらに加速し、駐車場を凄まじい勢いで疾走した。
 マックスは大声で喚いた。正気の沙汰ではないと思った。彼らの車両は犬を咀嚼しようとしている化けものに真正面から衝突し跳ね飛ばした。全身がシェイカーにぶち込まれたように揺さぶられるGTーRは犬がいたSUV車を巻き込みながら大きくスピンし、奇跡でも起こったに違いないが、横転もせずになんとか停止した。マックスはエアバッグを払いのけ、咳き込んでいるエリファの肩を掴む。「怪我は?」エリファは乱れた髪を振った。「早く――もう行こう」
 扉を蹴って開けたとき、自分たちが生きていることが不思議でならなかった。前方はややひしゃげ、正面ガラスはひび割れ、ペンキをかぶったように血が飛び散っている。相手がなんであれ、もはや無事ではないだろう。車が動くかどうかも心配だったがエンジンはまだ生きている。
 マックスが向こう側の車内に呼びかけた。
「おいで、ワンちゃん。来るんだよ。そうだ、車に乗って」
 犬はSUVの座席の床に隠れていた。三列タイプだったのが幸いしてあの鉤爪から逃れたのかもしれない。ブレイクは後部から頭を出して、マックスをじっと見ている。昼間はあんなにきれいな毛並みだったのに、今は毛がぼさぼさで耳の根元に血がついている。だが命に別状は無さそうだ。
「ブレイク、ここに来て!」エリファも加勢して助手席の座面を叩く。
 興奮した大型犬に近づいてもよいものかマックスは悩んだ。と――シェパードはゆっくり身体を起こし、車から出てくる。軽い身のこなしで駐車場に降りてきた。
「なんて勇敢な犬なんだ。さあ乗って」ブレイクを助手席に促し、自分も身体を押し込んだ。大型犬を膝に抱えてかなり窮屈になったが、犬の方は気にも留めず、尻尾を振ってエリファの顔をべろべろ舐めている。「悪いけど後にして……」犬の顔を押えて、エリファはGTーRを操作した。エンジンが空回りしている。それがもう一度続く。
 マックスが彼女に顔を向けるとエリファも彼を見ていた。彼女が何か言おうと口を開いた時、車体が大きく傾ぐ。ブレイクが警告的に激しく吠えたてた。次の瞬間、突き上げるような衝撃に襲われた。二人は車体に正面からぶつかり、悲鳴を上げることさえできなかった。後部座席の床からばりばりと食い破られ、何かが侵入してくる。耳障りな金切声が車内に響き渡った。一回り小さい四つ目の怪物が牙をむき出しにしている。それが二頭、床を割り、よじれるようにしながら生えている。あの蠢く衣だったものだ――化けものは車体の下にもぐりこんでいる。
 
 
 
 ぎゅっと靴底が冷たいフロアを踏みしめる。ステイカーが無意識に後じさりした音だった。
 目の前には血塗れの〈貴婦人〉がいる。さらにその奥では、ひっくり返っていた〈紳士〉がはね起きるのが見えた。
 俺に構うんじゃない、と彼は心からそう言いたかった。T3xライフルを握りしめ、一歩ずつ後退する。
 もはやリンジーの影も形もないその〈貴婦人〉は、ばきばきと骨格を変形させて長くなった腕を片方ずつ掲げた。サーベルのような鉤爪が暗闇に光っている。大蜘蛛が獲物ににじり寄る姿を連想させた。
 ステイカーが踵を返すのと、〈貴婦人〉が両腕のサーベルを突き出して飛びかかってくるのは同時だった。凶悪な風が顔の横を通り抜け、あと少しで彼の頭を引き裂くところだった。勢いに翻弄されたステイカーは金属棚に叩きつけられる。ライフルは手放さなかったが、もはや銃一挺でどうにかなる状況ではなかった。
 〈貴婦人〉は着地するとサーベルで床を削りながら身を翻し、ステイカーと真正面から対峙した。すれ違う時に見たくないものも目にした。後頭部にリンジーのような顔の肉の盛り上がりがあった。閉じたまぶたの厚み、鼻の高さ、少し開いた口元。まるで眠っているようだった。
 商品棚に挟まれた通路の反対側には、地獄の住民そのものの姿の〈紳士〉だ。脈打つ血管が全身に飛び出てそれが規則性もなくあちこちで蠢いている。胸元にはステイカーが刺したステンレス棒から血を滴らせ、肩の首はほとんど千切れかけなんとかぶら下がっている。頭のシルクハットだけは文明の名残りがあるものの、その下は血の髭と乱杭歯の醜い顔だ。ステッキでとんとフロアを叩いた〈紳士〉は、嫌味なほど気取った動作で取っ手に自分の手を置いた。
 暗闇で一閃が光った。〈貴婦人〉と〈紳士〉のどちらが先に襲ってきたかはわからない。衝撃が顔を狙う前に、ステイカーが身を屈め、死に物狂いで商品棚の下段蹴り飛ばした。それが背面のない棚で、なおかつその場所に詰まっていたものがマシュマロでなかったら助からなかったかもしれない。棚の中に飛び込んだステイカーは、何かの箱入り商品や袋から破れてぽんぽん跳ねる白い塊と一緒に隣の通路まで転がり出た。彼の頭上では鞭のようにしなる何かが金属棚の三分の一をぱっくりと切り裂いている。商品が頭上になだれ込んできたためステイカーは身を守った後、すぐさま棚に体当たりした。荷が軽くなったせいで、二列の金属棚はバランスを崩し、先ほどまでステイカーが立っていた場所に轟音を立てて倒れた。
 意味のある行為であればいいのだが。彼は通路を走り抜ける。予定通りであるならば、まもなくエリファとマックスは店舗の敷地を出て行く頃合いだろう――しかし、彼には確信が持てないでいる。
 走り、陳列棚を曲がり、また通路を走るや物陰に滑り込んで身を隠した。息を整えて冷静さを保とうと必死になった。考えろ、考えろ、考えろ……。リンジーは、もういない。ヤバいのが二体いて、とてつもなくすばしっこく、しかも俺に対してそれなりに関心がある。外のことは一旦閉め出せ。利用できるものはすべて利用しろ。
 ステイカーは自分が店舗のどのあたりにいるか理解しているし、こういった店の構造に大した違いはない。レゴ玩具を積み上げた区画からほんの少し顔を出して周囲の様子を伺った。姿は見えないが、奥の方で耳障りな軋んだ呻き声がする。馬鹿力でばきばきと金属を叩き折っている。
 少々の時間は稼げたがこのまま逃げることは不可能だ。現在遭遇している化け物のことはわからないが、運よく外に出られたとしても、経験上血の匂いで追跡してくる可能性が極めて高い。
 ステイカーは音も立てずに移動を開始した。幸か不幸かマックスを探すために動きまわったので、すぐには彼の痕跡を見つけることはできないはずだ。今も移動し続けている。そうでなくては困る。
 化け物がステイカーを探し始めた。二体はそれぞれのやり方で人間狩りをすることにしたらしい。ばらばらに動いている音がする。一方は最初に遭遇したようにがむしゃらに走り回っているので位置の特定は容易だったが、もう一方は聞き取りづらい。ずる賢く追い詰めるような探し方だ
 〈貴婦人〉の方が頭がいい。そこでステイカーは腹を括った。
 目的の物を見つけるために薄暗い通路を素早く通り抜ける。化け物の徘徊する気配が近づき、その度に足を止めて商品の背後で息を潜める。人ならざる大きな影がスーパーマーケットの棚と棚の間を移っていく。
 
 


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【2023/06/11 掲載】

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