コンフリクト (1)|Living Dead the Sanctuary

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 Conflict/衝突
 01
 
 年代物のGT―Rは頑張ってよく走ってくれた。途中、道無き道を走ったせいで車体のがたつきに拍車がかかっているが、この様子なら帰路も申し分のない働きをするだろう。ステイカーが路肩に止めてエンジンを切ると、GT―Rはほっとしたように車体を揺らして動きを止めた。
 道路の反対側に待ち合わせの場所になっている〈10(テン)(スリー)―コーヒー〉が見える。外装は緑と黒のストライプ柄で、外から様子が伺えるほどガラス窓が大きい。そのチェーン店は北米の若い年齢層に人気があるが、ステイカーは一度も入ったことはない。〈10―3―コーヒー〉の売りである午後三時(それと午前十時)のサービスタイムが終了しているせいだろうか、見る限り客足は落ち着いている。待ち合わせの予定時刻を十五分も過ぎているため、妹とその知り合いは店内で待っている。
 後部座席で転がっていたブレイクが身を起こし、大きな頭を座席の間から突き出してくる。犬は何度か吠え、乱暴な運転をする車から早く下ろすように催促をした。
「わかった、わかった。ちょっと待て……」
 バックミラーを動かして自分の顔を見た。汚れはないが、表情が悪い。歳の頃二十の半ばを過ぎた、どう見ても気乗りのしない顔をした男が、鏡の前でため息をついている。
 これから会う相手は妹の知り合いというか、ステイカーに仕事の紹介をするために妹が連れてきたのだ。相手がどんなやつかは知らない。ステイカーも話半分にしか聞いていなかったし、まさか本当にそんな場を設けるとは思わなかった。妹のエリファはまだ高校生だった。
 ステイカーは鏡から視線を外し、助手席に置いてあったおんぼろ古書を手に取った。しげしげとひび割れた革表紙を見る。黒っぽい染みが端の方にこびりついていた。これは最近できた汚れだ。
 その古書をヘイズ家からとっさに持ってきたことを失敗だとは思わない。データで秘密裏に渡せるのなら、それに越したことはなかった。
 猟銃を返すついでに——勿論、彼はそのことを覚えている。子犬を押しつけてきたことも——ヘイズ家に戻って残りのページを撮影をすればいい、とその時は思った。本はグローブボックスの中にしまい、帽子とサングラスと古ぼけたロザリオを取り出す。長い数珠の先で、磔になったイエス像の十字架が、日差しを受けて一瞬だけ輝いた。ステイカーはそれを手首に巻きつけて袖の中に隠し、帽子を目深にかぶり、サングラスをかけて車のドアを開ける。シェパード犬をエスコートすると、犬は道路に飛び降りてぶるぶると体を振った。
 外の人通りは多かった。家族連れや学生の集団が楽しげにしており、中にはお菓子を盛り付けすぎてオモチャみたいになったアイスクリームを手に持って歩いている者もいる。というのも、目の前に公園があるのだが、今日はどこかの企業が主催した野外イベントが開かれているようだった。駐車できたのはタイミングがよかった。監視カメラに映らない場所なのも運がいい。
 入り口に屈強なバイオセキュリティが二人立ち、ゴーグルにマスク、白装束といった物々しい恰好で、列になっている客の入場を検査している。
 ちょっとした言い合いが聞こえた。入場を阻まれた男が怒っている。「嫁と子供が先に入って俺を待ってんだよ、入れてくれ! 子供の誕生日なんだ!」
 セキュリティは手に持った機械で、男の腕をピッと読み取った。もう一人がガラス板のような透明なモニターを弄っている。そのどちらかが、丁寧だが横柄さが垣間見える声で言った。「駄目ですよ。申し訳ありませんが本日は入場できません。ワクチンを更新なさってください。アンドレさん、あなたの接種履歴によると、子供の時にワクチンを一度打ったっきりで、一世代古いままなんです。この会場は〈BSレベル3〉の場所で、一定の制限が設けられています。ところでアンドレさん、どうもあなたは貧血の症状がみられますね。あちらで処置を受けてはどうですか? 健康は優良市民の義務ですよ。……」別に珍しくもないやり取りだった。
 ステイカーはシェパード犬を連れて車から離れる。彼を見上げて足元にぴったりとくっついて来る犬とともに道路を渡っていると、〈10―3―コーヒー〉の扉から妹のエリファが出てきた。茶色い髪を鎖骨まで伸ばし、おばあちゃんの家の絨毯の柄みたいな半袖トップスを着ている。彼女はステイカーの顔を見て、目を剥いた。
「何してたの、ジェイ! 遅いよ!」
 エリファは駆け寄ってくるなりそう言った。
「これでも早い方だよ。久しぶりだな。元気か?」とステイカー。足早に歩いて彼女を追い越す。だがエリファが素早く追いかけてきて、彼の帽子とサングラスを奪った。エリファはアメリカ英語で捲し立ててくる。
「元気か、じゃなくて、ねぇ、まさかその格好で会う気? 山でも登ってきたの? 普通、仕事の時ってさ——」 そこでエリファは彼のシャツの染みに気が付いた。裾を引っ張って、「うそ、血がついてる!」と声を上げる。
 勘弁してくれという思いでステイカーはエリファを見下ろした。
「俺のじゃない」と言って、裾を引っ張り返した。そして彼の持ち物を返すよう手を差し出す。エリファは素直に従った。サングラスを胸ポケットに入れ、血の染みを隠すためにシャツをタクティカル・トラウザーズの中に押し込む。裾に近い場所に染みがあるので、そうすれば見えなくなる。
「今日はお食事しながらちょっとお話するだけって言ってたよな?」
 自分の関心の無さが態度に出ていないことを願った。エリファとの約束だから、無下にはできない。
 扉の前でエリファはくるりとこちらを振り向き、健気にステイカーを励ます。
「大丈夫だよ。うまくいくって。お兄ちゃんの仕事相手には私が吹き込んどいたから。もうばっちり」
 エリファはにっこりと笑って、ステイカーの腹に軽くパンチした。痛くも痒くもない。いつもなら大げさに演技してエリファを笑わせるが、今はそんな気にもなれない。
 どうして俺はこんなところに来てしまったんだ?
 扉を開けてエリファを促し、一歩店内に踏み込んだ瞬間、店内客全員の視線を浴びた時——はっきりとそう思った。
 
 
 
 白い牙が真紅の果肉に刺さる。その女性の真っ赤な唇は、ラズベリーのせいでさらに赤く染まっていた。
 親指についた果汁をちゅっと音を立てて吸い、リンジーは言う。
「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ?」
 テーブル席で対面するステイカーは、困惑して反応が遅れた。エリファは彼の隣でにこにこしている。
「はじめまして……お会いできて光栄です」本心ではないが彼は愛想良く言う。床で寝そべっている犬のブレイクが、退屈そうにあくびをしていた。うめき声が聞こえた。
「ステイカーさん、あなたが入ってきた時は驚いちゃった」リンジーは食べかけのベリーのケーキをフォークでつついている。「まさかあなたみたいな人がやって来るなんて思わなかったから。すごく、なんていうか——」彼女は目を細めて微笑んだ。
「きらきら?」と、リンジーの隣に座っているマックスが言う。
 リンジーはテーブルの上で腕組みをした。灰色の瞳がまっすぐとステイカーを見つめている。
「そう。登場しただけで輝いて見える人って本当にいるのねぇって。世界の時の流れがゆっくりと流れていくみたいで……」
 リンジーの声は低く落ち着いているが、静かな興奮が聞き取れる。
 ステイカーは何も言わずに二人に笑みを作って見せた。全く笑えない話だったが。
 〈10―3―コーヒー〉で彼を待っていたのは、リンジーとマックスという二人組だった。リンジーは高い位置にポニーテールをして額をさらしており、袖の短い革ジャケットを着ている。マックスの方はアフリカンの男性で、白いパーカーの首回りにある宝石の刺しゅうが目立つ。だがステイカーが最初に気づいたのは、マックスがファッションモデルみたいに上手に化粧をしていることだった。
 エリファが口をはさむ。
「はい、ご覧の通りうちの兄はとても鍛えてるんです。身長も高いし。だからなのか、時々注目を浴びるみたいなんです。兄のような人はなかなかいませんよ」
 人身売買の売り口上なら文句のつけようもない。
 リンジーは頷き、「すてきなご兄妹(きょうだい)ね」と言う。
連合王国(UK)の人だとか」
「ええ、そうです」
「どこの出身? 都会の生まれ? いかにも英国人みたいな喋り方だけど、あんまり特徴がないのね」
「ご想像の通りですよ」
 面接なら落第の答え方だったが、リンジーは明るい声で笑う。
「気を悪くしないでね。あなたに興味があるのよ。それで……以前はセキュリティ会社に勤務をしていて、とても優秀だったと聞いてるけど」
 一体エリファは、俺の何を話したんだ? ステイカーはご機嫌顔の妹をちらっと見て「確かに、防衛に関しては一通りの訓練を積んでいますが」と言うしかなかった。
「それじゃ、悪い人を捕まえたことがある? 暴漢と取っ組み合って、外に追い出したりなんかして?」
「いえ——いや、はい、まあ……時々は」
 爆破で扉が吹っ飛ぶ音。煙の中から飛び出し、標的を撃ち抜く——その軽い衝撃。唐突に湧きあがる記憶は、消える時もあっという間だ。ステイカーは平静そのもので表情を保った。
「ほら、完璧。エリファは嘘をつかないよ。この人に来てもらいましょうよ」マックスがリンジーの腕を引っ張った。その時、マックスはステイカーに向けて、カールしたまつ毛をウィンクして見せる。からかわれているのかと思ったが、どうもそんな様子ではない。ここは任せろといった感じだ。
 リンジーは首を振る。
「今すぐには決められない。他にも候補者が控えてるんだから」
「でも彼に決めることになる」と、マックス。
 ステイカーは意を決して質問をする。
「失礼を承知で伺いたいのですが、お二人は何をされて……?」
 リンジーは歯を見せて笑った。犬歯がむき出しになっている。
「まだ言ってなかった? あのね、私たち、ショー・ビジネスをしているの。この通りの向こうの方で。今は建て替え中だからよくわからないかもね」
「ショー・ビジネス?」
「そう! 歌って踊る熱いクラブよ。同性愛者専用のね」
 マックスはリンジーの肩に手をかけて指をひらひらする。
「ああ……なるほど」ステイカーは深く感じ入ったように頷いた。「つまりお二人は、そのゲイ・クラブの警備担当者を探している最中なんですね」そう言いながら、ステイカーはエリファの靴を小突いた。後で家族会議をしよう。
 マックスが長い爪のついた指でストローをつまみ、アイス・カフェ・オレをかき混ぜている。トッピングのホイップクリームとチョコレートは溶けてグラスの中でどろどろだった。マックスは言う。「最近、物騒じゃない? ここ半年でクラブ関係者が何人も失踪してるんだよね。二十九人だったか。信じられないことに世間ではあんまり話題になっていないけど、業界ではてんやわんや。そのせいか西海岸の大きな店が何件か潰れてるの」そこでマックスは意味ありげに声をひそめた。「悪霊(あくれい)に連れ去れたんだって」
 リンジーは小さくため息をはいて、
「ただの噂よ。私たちは目をつけられやすいから、常に気を張らなくちゃいけないの。意外かもしれないけど、結構人気なのよ、うちの店」
「そのようですね」と、ステイカーは率直に同意した。クラブを拡大する資金があるのだから、彼女の言う通りなのだろう。
「みんなが安心してお店を楽しめるようにしたいのよ」と、リンジー。「元は叔母のクラブでね。引き継いだからには真面目にやりたいの。それに私は——私は同性愛者じゃないから、時々みんなと衝突することもあったけど、でも今はすごくいい感じよ」
 マックスは肩をすくめた。その衝突は密かに続いているんだろうとステイカーは思った。リンジーが「私は()()だから」と言おうとしたのは鈍感な彼にもわかったからだ。
「とにかく、警備を増やしてお店を邪魔されないようにしたいっていうわけ」
 リンジーは指輪をいじっている。その時、指輪の下——手のひら側の小指に、横切るような切り傷があるのが見えた。彼女は目を上げて言う。
「ステイカーさんはロンドンから来たんでしょ? 英国の都会は寛容だって聞いているから、あなたもそうだといいんだけど……?」
「あ、それなら大丈夫ですよ」とエリファが背筋を伸ばす。「だって、うちの兄ってば、私が十四歳の誕生日の時にドラァグクィーンのダンスを完コピした動画を送ってきたことがあって…」
 ステイカーがつま先でエリファの靴をぐいっと踏んだので、彼女は口を閉じた。
「へえ、それじゃ踊れるってこと? その動画、今度見せてよ」とリンジーは関心を惹いた。「ダンサーはいつでも募集してるから」
「ええ? 待って、それは駄目。警備はともかく、舞台の上のことは他の子と話し合わないと」
 マックスはきっぱりと反対する。
「この人は違う人だよ。見ればわかる。感じが違う。あんただってわかってるでしょ? それにうちじゃステージに上がれるのは男も女も同性愛者だけって伝統だよ。あんたの叔母さんがそう決めたんだから。それじゃなきゃ……」
「でも変化は必要よ、マックス。叔母はもういないし、今の経営責任者は私。確かにあなたは将来の共同経営者の予定だけど、今はアドバイザーでしょ?」
 そうして二人の議論が始まった。こちらのことなどそっちのけだ。
 俺はどうしたらいい? 止めるべきなのか? どうでもいい——早く帰りたくてたまらない。なにも、ここがコーヒーショップだからという理由ではなかった。
 隣のエリファに嫌味の一つでも言ってやりたい気分だった。当のエリファはなんだかがっかりした様子で、カフェ・オレ・ドリンクを見下ろしている。グラスにはクリームとチョコチップが綺麗にもりつけられており、ほとんど手つかずだ。多分、マックスが注文したものと同じ商品だろう。
「飲まないのか」ステイカーは前を向いたまま言った。現在のところ、マックスが経営のことを指摘しながら、尖った爪でリンジーのジャケットをつついている。付け爪だが本当に刺さってしまいそうだ。
「これ、思ってたよりも、美味しくない。みんなは美味しそうにしてるけど」
 エリファはグラスを滑らせてステイカーに寄越した。もういらないから、お兄ちゃんにやる、という意味だ。その飲み物をリンジーとマックスの二人のどちらかに買ってもらったことは明らかだった。「甘いの好きでしょ」
 ステイカーは溜息まじりでストローに口をつける。エリファは誤解している。彼が好むのは、甘いミルクティーだけだ……一口飲んで、ステイカーはすぐにやめた。眉をひそめる。
 ()()()()()()。とてもではないが、飲めたものではない。
 ヘイズ家で飲んだミルクティーとは全然違う。紅茶だとか、コーヒーだとか、そんな些細な話ではない。砂糖の味がかけ離れている。一度味を知れば忘れない、〈キャロビーズ社〉製の最新の人工糖——別名〈モンスター・シュガー〉が使われている。甘いことには甘いが、とにかくもう二度と口に入れたくないと思わせる代物だった。ステイカーは野外イベントのことをすぐに思い出した。主催企業はどこだった? イナゴマメとハチのマークをした〈キャロビーズ社〉ではなかったか?
 何か嫌な感じがした。この糖は東部をはじめとして都会で急速に拡大している製品だが、味わった時には決まって悪運に見舞われる。それで、前は……。彼は無意識のうちに、テーブルの下でロザリオの数珠を手繰っていた。
 エリファは立ち上がって窓の方へ歩いて行った。別に、機嫌の悪い兄から逃げようというわけではなく、ロールブラインドを下げたかっただけのようだ。西日が差し込んで彼女だけが眩しかった。
 エリファがブラインドの紐に手をかけると、突如として空気が変わった。窓の外にいた大勢の通行人たちが、タイミングよく彼女を振り返ったのだ。通りの向こうまで、コンマ一秒のずれもない。おそろしいほど同時に彼女を注視している。通行人だけではない——それどころか、店内の客や店員も彼女を見ていた。リンジーとマックスまでもが話をやめてエリファを振り返っている。辺りは水を打ったようにしん…としていた。時間が止まったかのようだった。
 ステイカーもエリファを見ていたので図らずも注視する群勢の一員になっていたが、周囲が異様なことには気付いていた。
 エリファはその時硬直していたものの、さっとブラインドを下げると、時が再び流れ始める。通行人は歩きだし、店内のざわめきも元に戻る。
「イベントって、まだやってるんだねぇ。いつ終わるのかな?」とリンジーがこちらに向き直る。マックスも、今のは偶然だったといわんばかりの態度で首を振った。「さあ? でも今日はそっちに行く時間はないわ」
 エリファがぎくしゃくとして席に戻ってきた。彼女が言う。「私、何か変だった? どうして今日はこんなに人が見てくるの? 飛行機を降りてこの街についてからずっとこうなの」目には驚きとちょっとした恐怖が混じっている。
 見ればわかる。感じが違う。——しかし、それは()()の方だって当てはまる。
「落ち着いて。もう帰るよ」とステイカーはエリファに優しく囁いた。妹はまだ子供だから、パニックで泣き出してもおかしくない。
 それからリンジーとマックスに対して語調を強めて言う。
「せっかくのお話ですが、私は踊りませんし、お二人の邪魔をする気もありません。場所がなんであれ私にできることは、そこの野外イベントのバイオセキュリティのように、対応をすることだけです。もちろん、何かあればすぐに駆けつけますし、追い出すことも可能です。手に負えないほどの集団でなければ」
 リンジーとマックスは、意思の通じ合った双子みたいに、うんと頷いている。腕組みまで同じ姿勢だ。
「ですから……私が言いたいのは……」ステイカーは正直に言った。「まだ自分の考えがまとまっていないので、後日、日を改めるというのはどうでしょう?」
「いいわよ」
 リンジーはあっけらかんとしている。「あなたも驚いてるでしょうし、私も今日は決める予定じゃないから、また今度——別の日に続きを話しましょう。マックスは?」
「月末までには人員を整えなくちゃいけないのに。でも、しょうがないわね」
 もう二度と会うことはない。ステイカーは静かにそう思った。早急にこの場所から離れなくてはならない。
 ステイカーはすっくと立ち上がって、椅子を後ろに引いた。口早に言いながら、エリファを無理矢理立たせる。シェパード犬も彼についてきた。
「お時間を割いていただき恐縮です。あなたがたならクラブを町一番になるまで成功させるでしょうね。妹はお二人のことが大好きのようです。またお会いできたら嬉しいです。後ほど連絡します」
 他に言い方があるのだろうが、もう自分がどう思われようとも構わなかった。ステイカーはマックスとリンジーのそれぞれに握手を交わす。だが、リンジーの番の時に、彼は手を握ったまま尋ねる。聞いておきたいことがあった。「小指の傷は?」
「ああ、これ? よく気が付いたわね」彼女は握手を離し、小指を立てて見せた。「子どもの時につけた傷よ。指切り遊び。近所の女の子に誘われてね。傷をつけた指同士をお互いに結ぶのよ。全部の指で指切りをして十回分の約束をすると、長く友達でいられるっていう……ここだけ深く切っちゃったのよね」リンジーは続けて言う。「この傷の後、不思議と友達が増えたのよ。ずっと一人ぼっちだったから。今ではお守りみたいなものね」
 それを聞いて、ステイカーは少し悲しい気持ちがした。
 リンジーは苦笑する。「田舎の遊びなんて知らないわよね」
「いえ——知っていますよ」
 そう言って彼はエリファとシェパード犬を先に行かせ〈10―3―コーヒー〉を出ようとした。妹は扉に背を向けてマックスに手を振り、マックスはウィンクを投げ返していた。
 その時だった。扉が開いて二人組の男が店に入ってくる。髭面の男とのっぽの男。髭面の方が何か話しながら上着の中に手を入れ、エリファの背後に接近するのが視界に入る——ほんのわずかな瞬間、男の腰に黒革のホルスターがあるのが見えた。
 目にした時にはもう体が動いている。
 わっと悲鳴が上がった。
「お兄ちゃん、やめて!」とエリファが叫んでいた。シェパード犬も吠え、店内は騒然とした。
 ステイカーはテーブルに押さえつけている男を見下ろす。相手の片腕を捻り上げ、体重でその顔面を潰しかけていた。「この野郎ぉ、何しやがる……」と男は呻いた。
「銃を持ってる」ステイカーは締め上げる手を強めた。「彼女に近づくな」
「違う違う、違うって!」連れののっぽが扉の前で喚いている。「だからそんな紛らわしい物に入れるなって言ったんだよ! あんたもよく見ろ!」
 ステイカーは素早くホルスターの中身を探る——中から出てきたのは、小型の携帯電話だった。その時点でかなり動揺をしたが、彼はそれでも髭面の男の襟を掴んで、その首を確認し、手首に視線をやり、下唇を引っ張って口の中まで見た。それぞれに〈自然〉〈真実〉〈愛〉とタトゥーが彫られていた。
「カリフォルニア・スタイルだよぉ」と口を引っ張られながら男は言う。「けーさつ、呼ぶぞ」
 彼は黙って男を開放した。先ほどからステイカーのトラウザーズに噛みついているシェパード犬をなだめて離させる。州法の知識と腹立たしさが頭の中を巡った。考えても仕方のないことだったが。
 顔をあげると、カウンターの中で目をひん剥き、受話機を握りしめている店員がいる。妹は少し離れた所で口を押えて絶句している。誰も彼もが驚愕の顔で彼を見ている。
 耐え難い視線だった。
 ステイカーは両手を挙げ、出口に向かう。
「すぐに立ち去ります。もう大丈夫です。この店は安全です。何も心配はいりません」
 店員は大声で答える。「店内では犬にリードをつけてください!」
 彼は何度も頷いて、逃げるように店から出て行った。
 
 


<< 小説の目次 >>

【2021/03/13 掲載】

※主人公は英国人なので普通ズボン=トラウザーズなんだろうけど……トラウザーズって何? だろうし、悩む。
※今後はカタカナ語は英米和製が入り混じると思います。例:ハンドル(和製)、アクセルペダル(和製)、ガソリン(アメリカ英語)……。

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