縦横切り替え

 

 
第一章 杭打ち人/THE STAKER
 
 
 とにかくこの仕事をやり遂げなければならない、とジャック・L・ステイカーは自分に言い聞かせた。標的はすでにスコープの中におさめている。乾いた大地に背の低い緑の茂み。その横の倒木の影。
 余計なことは考えるな。すでに標的を一つ仕留めた——もうあとには戻れない。彼はそう叱咤して、不快感を腹の中から追い出した。
 二脚(バイポット)と自身の骨格でライフルを支え、射撃姿勢が万全であることを確認した。ステイカーは丘の上で葉を広げる低木のそばに身を伏せていた。太陽は背中側にあり、完全に逆光となっているため、向こう側からは彼の姿は見えない。銃身はネットで覆い、自身も上着を頭からかぶっている。それは体のシルエットを隠すためだが、日除けとしての機能も果たしていた。五月の北米大陸西部の気温は三〇度近くまで上昇し、今は無風だった。暑いがコンディションは悪くない。気温が高いと空気が膨張して、空気の密度が薄くなる。空気の密度が薄ければ空気抵抗が少なく、弾丸の飛距離は伸びる。威力の減衰が遅くなるということだ。
 何かに警戒したのか、標的が首を起こすのが見える。彼か、あるいは草叢(くさむら)に隠れている同族のにおいを感じ取ったおそれがあった。
 やるなら今しかない。それに時間も限られている。
 息を深く吸ってはき、自然な呼吸に戻るまで待った。体の筋肉が弾道に影響を与えないよう無駄な力を抜いて静かな世界の中にとどまる。その間だけは照りつける日差しと高温の環境を忘れることができた。迷いもどこかに消え失せた。胸骨の下で自分の心臓がどくどくと脈打つのを指の先まで感じた。
 標的がゆっくりと立ち上がる。顔は別の方角を見ているが、丸みをおびた耳をそばたて、こちらに向けている。灰色の立派な毛並みは日光でかがやき、洗練された野生の気高さが佇んでいる。だが、それに魅入る心の隙間はもはや完全になくなっていた。
 呼吸を止める。鼓動と鼓動の合間、そのわずかな静止の瞬間に、ステイカーはきわめて慎重にトリガーを引いた。
 銃声が響く。衝撃により肩はぐっと圧迫された。スコープが揺れ、跳ねた銃が落ち着くまでの間も、彼は一切の動きを止めていた。
 五・五六ミリ弾が確実に相手を撃ち抜いたことはわかっていた。射程距離は三〇〇メートル程度なので、肉眼でも姿を確認することができる。彼の仕留めた標的は土の上に倒れ、ぴくりとも動かなかった。狙ったのは左前足の付け根から少し上の方だった。イヌ科の動物はそのあたりに心臓がある。命中すればほとんど即死だ。たとえ狙いが数センチずれていたとしても、周辺に着弾していれば内臓はずたずたになり致命傷になる。スコープで確認しても、やはり標的は倒れたままだった。
 ステイカーは上着をとりのぞき、伏せ撃ちの姿勢から上体を起こした。借り物であるTikka社のT3xライフルの二脚(バイポット)をたたみ、体中についた砂埃をはらって一息つく。黒い銃身に木製のグリップがつやつやしているその銃は、持ち主にほとんど使われておらず、まさに新品同様だったものの、いつ手入れをしたのかはわからないような物だった。信用がなかったため自分で分解して一日がかりで調整をした。ハンティングの結果は上出来だ。スコープと二脚があらかじめついていたのも、新たに購入せずにすんでよかった。本当は、彼は銃を安定させるさいは砂嚢(さのう)を使うことを好むが、それはイヌ科の動物を追跡するのには向いていない。
 帰って紅茶を一杯飲みたいと思った。主な仕事は終わりだが、あいにくとまだやることが残っている。早々に片づけなければ山火事を監視する飛行ドローンの巡回時間と重なる。ステイカーは上着をはおってからライフルのベルトを肩に通し、軽く口笛をふいた。背後の斜面の草叢から大きな三角耳を立てたジャーマンシェパードドッグがひょっこりと頭を出す。
来い(カム)
 犬は尻尾をぴんとさせて彼の元までやってくる。ご機嫌のようだった。まだ一歳になったばかりの若い犬で、背中が黒く、毛がふさふさしている。彼の犬は標的を追跡する仕事をうまくやってのけ、ステイカーが銃を撃つ間は彼の指示どおり、しっかりと伏せて同じ場所で待っていた。いい子だ、と簡単に頭を撫でてご褒美を与えた後、彼とシェパードは丘をくだった。
 その場所に着く前にステイカーは犬を後方で待たせ、標的へ一人で近づいた。艶のあった灰色の毛は汚れ地面に血溜まりができていた。口からだらりと舌を垂らして横たわる亡骸を彼はじっと見下ろす。
 ——やっぱりこいつはコヨーテじゃないな、とステイカーは確信した。コヨーテはアメリカ大陸にいるイヌ科の雑食の生き物で、かなり頭がよく、最近では勢力を拡大して都市部でもその姿が見られるという。耳が大きく、口がとがって、目はアーモンド型だ。顔立ちはどこか狐にも似ているが、狐よりも体格は大きい。
 しかし、彼が撃ち殺した動物はさらに一回り体格があった。足は長くその先は太い。土に残った足跡も、事前に聞いていたサイズを超えていた。素早く長距離を走るための足を持っていた。頭は大きく、額ががっしりしている。耳は平均よりも小さく見えた。それにあの尻尾。まるで狼のように太い。かといってその姿は狼ではなくコヨーテの血統を保っている。
 おそらくコイウルフだろう、と彼は思った。西の方までいたとは彼も知らなかったが、どのみち彼は動物学者ではないし、野生のコヨーテと狼について知っていることといえば、シートン動物記とナショナル・ジオグラフィックとハンター向けの雑誌のいくつかの記事に書いている内容程度だ。コイウルフについてはさらに理解が浅い。なんでも彼の祖先である欧州人たちがアメリカ大陸で狼を狩りすぎたせいで、コヨーテの数が増し、その時に運命の出会いがあったとか。そう、彼らは混血種なのだ。異種同士の混血は普通、子孫はできないのだが、狼とコヨーテは遺伝子的に近い存在であるため、交雑が可能らしい。だが、通常はミシシッピ川を隔てて東部に集まっているというような話だった。
 すでに始末した一頭を思い出す。それはコイウルフの雄だった。野兎で罠にかけたところ、姿を現したため彼に撃たれた。そして目の前で死んでいるのは雌だ。ステイカーが無人カメラを使って調査した限りでは近くで活動しているのはこの二頭だけだった。コイウルフの生態に詳しくないが、なんにせよイヌ科は社会性動物なので狩りと繁殖のために群れは必ず作る。今回はかなり小さい規模だ。東からたった二頭、餌を求めて逃れてきたのか、それとも交雑が拡大した結果、新たな群れを作り始めていたのか。
 ステイカーがその場で身をかがめ、死体を担ごうとコイウルフの体を持ち上げる。そこで彼は気づき、自分の失態を罵った。
 コイウルフの心臓を貫通した五・五六ミリ弾は、その向こう側にいた子供の喉につき刺さっていた。まだ肉を食べられないような、生後間もない子供だった。彼がその弾丸をそっと取り除き、指先で子供の息を確かめたが、そうする前から母親の体の下で絶命していたことがわかった。
 ふと地面を見る。倒木の近くにぼろぼろになった青い首輪が落ちていた。それを拾って銀色のタグを裏返すと、依頼主が飼っていた猫の名前が彫られていた。
 ステイカーは疲労を覚えて、小さくため息をついた。
 いつの間にかシェパードがそばに来て甲高く鼻を鳴らしている。茶色い目がこちらを見上げていた。時々、彼の犬は命令を無視をすることがある。今は注意する気も起きなかった。
「そんな目で俺を見るな」と彼は言った。
 丘の上から撃った射角を考えれば、母親を求めて倒木の巣穴から出てきた時に射線が重なったのだろう。
 とてもではないが、爽快な気分とは程遠い。よほどのことがない限りハンティングの仕事は二度と受けまいと彼は思った。性に合わない。それに彼がやらなくとも、ハンターならなりたがるやつは他に大勢いる。
 シェパードがコイウルフの死体のにおいをかぎ、周囲をうろうろ動き回って倒木の穴にたどり着いた。まだ子供が残っているのかもしれない。
 ステイカーが膝をついて穴の中に腕をいれると、一頭を引きずり出すことに成功した。他にはいないようだった。コイウルフの子供は子犬とほとんど変わらない姿で、手の中でひゅんひゅんと鳴いている。彼はバッグから小型のポーチを取り出してその子供を中に入れ、空気のために入り口を少し開けておいた。ステイカーはシェパード犬に近寄り、
「よし、ブレイク。お前が運ぶんだ。絶対に落とすなよ、いいな?」
 専用のベルトで犬の体にポーチをくくりつけている間、シェパードは大人しく立っていた。何度かベルトを引っ張ってそれがしっかりと固定されたのを確認し、ステイカーはコイウルフを左肩に担ぎ上げる。重量は二〇キロをゆうに超えている。これを背負ったまま目的の場所まで少々歩くことになるが、大した問題ではない。
 ——まことにお気の毒ですが、残念ながらおたくの猫ちゃんはこの獣の胃袋におさまっていたようです、と依頼主に告げる方が億劫に感じていた。
 
 
 
 ペイジ家に着いたのは午後一時過ぎだった。広々とした牧草地帯を抜け、中古のスカイラインを玄関先に停車させた。ステイカーがサングラスを外して車から降りると助手席に乗っていたシェパード犬もシートを飛び越えて彼についてくる。
 ペイジ一家の家は古い。十九世紀に建てられた牧場主の家だ。改築を重ねているが、昔風情の名残りをそのまま残している。ペイジ家は二か月前に越してきたばかりなので牧場はいまだ手つかずのままである。
 ウッドデッキの階段に女の子が座っていた。膝の上で頬杖をついており、その顔はどうも落ち込んでいるように見えた。
「やあ」
 近づいたステイカーが声をかけるとキーラ・ペイジは不機嫌そうに「変なエンジン音」と言った。九歳の女の子に八十年代のGTR(三十二型)をけなされるのはちょっと面白かったが笑わないようにした。彼女が言いたいことはわかる。
「車を変えたの?」とキーラ。
「うん。前の車は山の中で駄目になって。何かあった?」ステイカーが素知らぬ様子で話を変えた。
 キーラはウッドデッキから黒い眼で彼を見上げる。
「殺したの?」
 シェパード犬が尻尾をふりふりしながらキーラの顔に鼻を押しつけた。
「悲しい?」
 ステイカーが聞き返すと、キーラは犬の背中を撫でて頷いた。自分の感情に名前がついていると知るのは何歳からなんだろうと彼は思った。少なくともキーラには事情がわかっているように思えた。
 ステイカーはキーラの前で腰を下ろして言った。
「その気持ちを忘れないで。きっと大事なことだから」
 彼女は頷き、「ママを呼んでくる」と家の中に戻った。シェパード犬も少女の後に続こうとしたので「お前はここにいるんだ」と首輪を引っ張った。どうせ遊んでもらえると思ったのだろうが、よその家ではお行儀よくしてもらわなければ困る。
 すぐに母親のパメラ・ペイジが玄関の扉を開けて出てきた。ほっとしたような顔の下で、トリケトラのシンボルを通したネックレスが陽光で光っている。「ああ、ステイカーさん。よかった。戻ったということは、仕事を終えたということですね」
「ええ、終わりました」彼は浅く微笑んで言う。「ブートを見てもらえますか? ——いやすみません、トランクのことです」
 ペイジ夫人は彼の言い間違いに少し気をゆるめた様子でウッドデッキから下りてきた。「大丈夫、わかりますよ。こちらに来てどれくらいになるんです?」
「一年です」
 ステイカーはペイジ夫人をスカイラインの後部まで促した。四つ目の蓋を開けて死体袋を二人で見下ろす。「群れは二頭だけです。この家からとても近い場所に巣があったので、人間が襲われなかったのは運がよかった。中は確認しますか」
 ペイジ夫人が同意したので袋を少しだけ開けた。彼女はすぐに目をそらしたが。
「いいえ、もう結構です」
 ステイカーは静かにジッパーを閉めた。
 ペイジ夫人はウェーブのかかる黒髪を振って、吐息をつく。「私たちの方が後からやってきたんでしょうね。しばらく家は空き家だったんです。その間に巣を作ったのかもしれません。これは……コヨーテ?」
「コイウルフだと思います。ご存じで?——そうですか。こちらも経験が豊富ではないので、確かなことは言えませんがね。それから……」ステイカーはトランクの蓋を閉めたあと、猫の首輪を彼女に渡した。「近くに落ちていて……」
「ああ、なんてこと」ペイジ夫人はショックを受けて口を押さえた。
「わかっていたんです。この動物にうちの猫が連れ去られたと聞いた時から、こうなっているはずだって。母親が飼っていた猫だったんです。かなり年寄りで……キーラが犬だと思ってお菓子を投げ与えたから、家の”食料”に気づいたんでしょうね」ペイジ夫人は目を伏せてトランクの蓋に手を置いた。「ちゃんと見ておけばこんなことには」
「とても残念です。だけどキーラが怪我をしなくてよかった」とステイカーは言った。猫に思い入れが深いのだろう、彼女は目の端を拭った。それから少し間をおいて、気を取り直したように言う。
「よかったら家で休んでいかれませんか? お預かりしているものについてお話ししたいこともありますし」
 ステイカーがまごついていると、ペイジ夫人はウインクした。「うちにはお喋りで賢いAIはいません」
 それを聞いて大いに安心した。ステイカーはにっこりする。「それじゃあ少しだけ——来い、ブレイク」
 シェパード犬が吠え、早足で近寄ってくる。犬を連れて、二人そろって家に向かった。
「さきほどの動物はどうなさるの?」
「ここから遠い場所で処理します。自然に返してやりたいですが、埋めると他の獣が寄ってきて掘り返すかもしれないので」
 腐敗を遅らせるために彼女から冷凍パックをやまほど貸してもらうよう話をつけた。一応トランクの底に断熱を施しているが今日のような暑い日には気休めにしかならない。
 
 


<< 小説の目次

【2020/10/02 掲載】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Back to Top