薄昏の子ら、ダンピール(2)|Living Dead the Sanctuary

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 02
 
 マックスを追いかける気配はなかった。ことが起こればすぐに対処するつもりだったが本当についているやつだ。待機しているブレイクも大人しいものである。
 また心配の種が一つ増えたが、まずはこの状況から抜け出すことを優先すべきだ。
 ステイカーはブレイクの黒い毛に覆われた背中を叩いて、小さな報酬を与えてから、ステンレス棒を鼻先に持っていった。次の目的が明確になったブレイクはすぐに行動を始める。血の匂いを辿るのだ。彼は金属棒をベルトに差し込んで、相棒の後に続いた。
 捜索は順調すぎるほどだった。犬は迷いなく足を進めて奥へと進み、壁側にずらずらと並んでいる冷蔵ショーケースの前を通る。ガラス扉の中には炭酸ジュースが並んでいた。入り口にあった広告看板と同じ商品だ。青白い明りがブレイクの背中を照らしている。冷蔵庫が低くぶうんと唸った。
 ブレイクは銀色のスイング扉の前で腰を下ろした。それから首を巡らせてステイカーの方を振り返り、指示を待つような態度を見せる。彼はその隣まで辿りつき、丸窓の隣にはりついて息を潜めた。奥は倉庫に繋がっている。窓からほんの少し覗くと、非常灯が点いていること以外に異様な様子は見られなかった。ステイカーはSIGを持ち上げ、ゆっくりと扉を押しやる。背後のブレイクがさっと立ち上がった。
 冷気が彼の肌を撫でた。倉庫内は暗く視界が悪い。小さな明かりが点々として、時折配管が軋んでいた。入ってすぐの壁には、スケジュール表をべたべたと貼ったボードと、消火器と、段ボール製の箱にゴミが溢れている。コンクリートの床はひびが入り、何かのシールがガムみたいにこびりついていた。様々な日用品の在庫が天井高くラックに収納されていて、それが何列も並んでいるために圧迫感があった。整理整頓が行き届いていることだけは好感が持てる。低く単調な風の唸りが倉庫の中で反響して耳障りだった。
 ステイカーは壁に背を向け、SIGを前に出したまま移動を続ける。暗闇から何が踊りかかってきてもおかしくない。ブレイクが左に曲がって行く。
 待て、とステイカーは鋭く囁いた。シェパード犬はぴたりと足を止める。犬の吐息が通路に響いている。ブレイクは落ち着いた様子でじっと佇んでいる。彼の犬は賢く滅多なことでは吠えない犬だ。
 床に血が擦れた痕があった。その通路は積み上げられた在庫の棚と巨大な冷蔵庫に挟まれている。十メートルほどの距離が続き、先は行き止まりに見えた。ファンがごうごうと音を立てている。冷蔵庫内を確認したが何もなかった。飲料を背面から詰めて陳列するもので、隅に商品が積まれているだけだった。ステイカーは腿を叩きブレイクを呼んだ。犬は真横に張りつき行動を共にする。彼らは冷蔵庫の前に並ぶ、使わなくなったテーブルやカートの群れを通り過ぎ、終端に手が届く距離まで近づく。その時、在庫棚の影で何か動く気配がした。彼は足を止め、身を屈めた。右手側、三メートル以内だ。棚は在庫品でぎゅうぎゅう詰めだったので隙間から伺うことはできない。少し待って向こうの出方を待った。こちらの存在に気づいているはずだ。もうその頃には濃い血のにおいが鼻を突いていた。一秒、二秒……動きはない。隣のブレイクは頭を屈め、今にも飛び出しそうなほどにうずうずしている。それを手振りで押しとどめたステイカーは、SIGの銃口を在庫棚の角に合わせ、通路を見た。
 照準器の奥で黒い輪郭がうずくまっている。
「うう、たす——助けて」
 びしゃっと床で吐血した。リンジーが、呻き、すすり泣いてステイカーを見ている。片足をかばいながら床を這って、その場から逃れようともがいていた。
 ステイカーは引き金に指をかけて銃口をリンジーに向けたまま動かない。
 彼女の黒いジーンズは引き裂かれ、ふくらはぎに深い傷を負っているのが見える。出血がかなり酷い。手で押さえているが血だらけだ。リンジーは再び黒い液体を吐いた。彼女は咳き込み、身体を二つ折りにして震えている。ひとまとめにしていた髪はほどけ、乱れていた。
 ステイカーの耳元で血の脈打つ音がする。配管の軋みも、ファンの唸りも、どこか遠くに行ってしまった。その代わりにあの声が頭に響いてくる。記憶の底からいつでも蘇ってくる。
 ——助けて……
 たっぷり数秒間かけて、ステイカーは照準器越しにリンジーを見据えていた。心が現実に戻った時、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
 ステイカーは安全装置をかけSIGを素早くベルトに挟んだ。在庫棚を見回して段ボール箱の中から未使用のシャツを見つけるや、それをいくつか引っ掴んでリンジーに近寄った。両手を挙げて穏やかな口調で言う。
「大丈夫だ。何もしないよ、迎えに来たんだ」
 言うほど彼女は全く大丈夫に見えない。負傷しているし、相当量の血を吐いている。緊急性が高い容態だ。だが、手当てをする前にやることがあった。一旦リンジーをそのままにしておき、ステイカーはビニール袋を破き、シャツを取り出した。布を裂いてそれを自分の顔にマスクのように巻き、後頭部で縛る。高性能フィルターマスクのような活躍は期待できないが、体液が顔にかかることは避けたかった。倉庫内を探せばもっと使える物があるはずだ。しかし、そうするには場所が広すぎるし、時間がかかる。
「足を触るよ。出血を止めないといけない。わかるね?」
 彼女は鼻をすすって小さく頷く。「とても痛むの。お願い……」意識はまだある。
 再びビニール袋を破いた。相手の血を触らないよう袋の上から布を扱い、応急処置を施した。リンジーは痛みで低い声をもらしていた。
「うう……なんで、こんなことに」
 余り布で口を拭って、リンジーが呻いた。
「すぐに病院へ連れて行くよ。本当に、近所だから。骨だって折れてないし、心配しなくていい。医者に体の具合を見てもらおう。友達にも会えるよ。彼は無事だ」そう言いながら布を縛った。前向きな言葉をかけてやらねば気力が持たないだろう。
 マックスより深刻な状態のリンジーを助けるべきか迷わないわけではなかった。しかし最悪だと判断するのは早計だ。ブレイクが鼻を鳴らして彼を見ている。こいつが大人しいうちはまだ大丈夫だ。
「他に痛むところは? 頭とか、お腹とか」上体に外傷が見当たらなかったため彼は聞いた。
 しかし、リンジーはのろく首を振る。「痛むのは足だけ。吐いて気分は良くなった」リンジーは続けて言う。「何かいた……」
 その呟きを一度聞き流した。「体を起こすよ」ステイカーは彼女の腕を自分の肩に回し、しっかり腰を抱えて、リンジーを立ち上がらせる。足つきは弱弱しかった。歩くのは難しそうだ。
「すっかり良くなったら、またお茶でもしよう——行くぞ、ブレイク」
 腕時計を見た。出発の時間が差し迫っている。いよいよ別行動の計画を立てる時期に来ている。
「何かいた。頭が大きかった……」リンジーは隣でぶつぶつと言っている。口元を布で押さえているので声がくぐもっていた。
「そいつは一つか? 二つか? もっとたくさん?」
「一つにも見えたし、二つにも見えた。どこも真っ暗だった……」
 そこでリンジーは青白い顔をステイカーに向けた。「あなた、ここに来ちゃいけなかった……」虚ろな亡霊の囁きのようだった。
「悪いがこれを自分の両耳に入れてくれ。何も聞かない方がいい。今から君を運び出す」千切り布をリンジーに渡すと疲れた様子で従った。その後、彼はリンジーの手首を持ち替えて肩に回し、一息に担ぎ上げる。消防士運びの姿勢が崩れないよう、彼女の腕と足を右手でしっかりと掴んだ。相手は小柄なので楽な方だ。
 ステイカーはSIGをベルトから引き抜き、片手で安全装置を外した。時間はないが、急げば間に合う。
 指示をせずともブレイクが先行した。黒い背中がスイング扉を目指してまっすぐと駆けていく。彼は出来る限り足を速めて倉庫を移動した。その間、リンジーは肩の上でじっと耐え、時々苦しげに息をついていたが、次第に意識が朦朧としはじめているのがわかった。
 犬は自力で店内に戻ったようで、扉がばたんと閉まるのが見えた。少し遅れてステイカーも扉を押し開け、急ぎ倉庫から出る。
 次の瞬間、けたたましい吠え声が静寂を破った。ステイカーは右に曲がろうとして、つんのめりながら急停止しなければならなかった。全身が強張り身動きが取れなくなった。
 三メートル先に、そいつがいた。蠢く黒い影のように見えた。そいつは背中を丸め、ジュースが並ぶ冷蔵棚に頭を突っ込み、猛烈な勢いでむしゃむしゃと食べ散らかしている。三日ぶりの飢餓を満たすような食いっぷりだった。べとべとの赤や白や黄色の液体がそこら中に飛び散り床に溜まっていた。そいつ自身もジュースまみれで、ひどい臭いが立ち込めていた。果汁のすえた臭いと砂糖とミルクの甘ったるさが交じり合って吐瀉物のような悪臭がする。
 そいつは〈キャロビーズ社〉の新製品コーナーをあらかた味わった後、液体したたる体を起こし、彼らを振り返る。ぞっと総毛立つ思いがした。というのも、男の首の根本が張り裂け、血管のような細い管が無数に膨れ上がり、あっという間にもう一つ分の頭と帽子ができあがったのだ。どう見てもシルクハットを被る何かだった。それと同時に手首から管が伸びて絡まり、長い棒になってとんと床に届く。やけに肉々しい外套を羽織っているそいつは、胸を反らし、曲げた腕を背中に回した。元の男の頭は、肩のあたりでだらんとして、この世の何もかもを恨む目で彼らを見ている。一つにも二つにも見える何かがそこにいた。
 その〈紳士〉は、果敢に吠え叫ぶブレイクに顔を向けた。シェパード犬はぎくっと後じさりしたが、なんとかその場に踏みとどまった。もはや威勢は削がれていた。
 犬が大人しくなったことに満足した〈紳士〉は、凝視するステイカーに再び顔を向け、脈打つシルクハットを持ち上げた。ショーケースの薄明かりがその顔を曝けだす。肌のあちこちで細い血管が飛び出し、蜘蛛の巣のように絡んで顎から垂れ下がっている。鮮血のような赤い両目が暗闇の中で燃えていた。
 〈紳士〉が溜息のような音を漏らした。
「ハゥ……ぅー、うー、どぅ?」
「え…なに……?」
 いつの間にか目を覚ましたリンジーが肩の上で聞き返す。事態を飲み込めず、耳栓を外して状況を探ろうとしたに違いない。布切れが床に落ちていった。
 今度ははっきりとした声だった。そいつが大口を開けたのでよく聞こえた。「ハゥ・ドゥー・ユー・ドゥ?」と言ったのだ。
「車に乗れ!」
 怒声じみた命令を聞いたブレイクがその場を飛びだした。〈紳士〉は足元を猛然と走り抜けるシェパード犬に一瞬気を取られ——その直後、SIGの雷鳴が轟く。ステイカーは横に移動しながら引き金をひいた。三発の45口径弾が闇を貫き、標的の顎を砕いたが、威力を確かめる間もなく彼はもう食料品棚の通路に入っている。
 シリアル製品の間を必死に走った。恐怖によるものか、振動で傷に響いたのか、リンジーが肩で叫んでいる。しかし気にするどころではない。後方で激しい衝突が起こった。〈紳士〉が陳列棚を張り倒して通路に飛び込んできた。コーンフレークを砂のように巻き散らし、這いつくばったまま床から棚へと移動してステイカー達を目掛けて突進してくる。帽子を被っている方の頭が棚のシリアルを食らい、人間の成れの果ての方がおぞましい形相で彼を威嚇した。
 くそ! ステイカーは後方へ下がりつつSIGを撃ち続けた。男の頭がずたずたになり血と脳漿が暗闇に飛散する。だが、怪物はまるで止まる気配がない。こんなのじゃ駄目だと思った時、節くれた棒が目の前で振られ、真隣りの棚を叩き潰した。その衝撃で体のバランスが崩れる。リンジーが肩から投げ出されて腹ばいで倒れるのが見えた。怪物が上体を起こし彼女に襲いかかろうとしていた。
 ステイカーは反対の棚に背中からぶつかった態勢のまま、ライフル(T3x)を構え、化けものの心臓と思われる部分を正確に狙い撃った。遊底(ボルト)を後退させて空薬莢(やっきょう)を出し、次弾を装填する。やりすぎなぐらい撃った。狩りとは異なる、徹底的な殺戮だった。正面から銃弾をあびたそいつは、けたたましい叫び声とともに後ろに下がるような身振りをした。
 決心は一瞬でついた。ステイカーは怪物に飛びかかる。ここで仕留めなければ誰も安全に逃げられない。ベルトからステンレス棒を取り、血生臭くなった怪物に刺そうとした。そいつは不気味な金切り声で抵抗したが、ステイカーはありったけの腕力で醜いステッキを制圧し、狂暴に噛みつこうとする〈紳士〉の頭をかわし、かろうじて胸部に突き立てた。その直後、喉に激しい衝撃を受けて体が宙に浮く。一時的に呼吸機能が叩き潰され、目が眩んだ。怪物の手が彼の首を鷲摑みにして通路に投げ飛ばしたのだ。ステイカーはほとんど無抵抗に棚へ突っ込んだ。チョコレートソース入りのボトルが次々と降ってきて体に当たった。彼は倒れながらも、反射的にその一つを掴んで相手に投げつけた。ガラス瓶が怪物の顔面で割れ、頭からチョコまみれになっていた。そうしていくらか視界を塞いでやった。
 〈紳士〉はひっくり返って床でじたばた暴れまわっている。赤子が駄々をこねているみたいだった。ステイカーは咳き込み、唾を吐いた。息を整える暇もなく起き上がって、倒れているリンジーのジャケットの襟を掴み、素早く移動した。リンジーは引きずられながら、痙攣したような声を漏らし、足をばたつかせて、びゅんびゅんと風を切るステッキの暴力範囲から逃れた。
 殺し損ねた、と彼は思った。接近した時、不死身の生命力がウィンチェスター弾の銃創をいくつか塞いでいるのが見えたし、ステンレス棒は直前で腕に邪魔をされ狙った位置から逸れた。心臓を外した。今は可能な限りあの怪物と距離を取ってあるだけの弾丸を撃ち込むしかない。
 その時だった。リンジーを掴んでいた手が突然軽くなり、ステイカーは勢い余って前方に転がった。受け身を取って、彼は気づく。持っていたのはジャケットだけだ。その下は空っぽだった。
 リンジーは離れた所で、自分の手足に絡まっている。関節が外れ、捻じれ、悪霊(あくれい)に憑依されたように自分で自分を拘束している。あるいは巨人の手によって丸められ、棒状にされたみたいだ。リンジーと目が合った。とても見ていられなかった。相手も彼の表情を見て生きる気力が萎えただろう。それから後は酷いものだ。肉と骨がグロテスクな音を立てて変形し、捻じれ、リンジーは彼女ではなくなった。足の側から黒い影が体をのみ込み、位置を入れ替わるようにして全く別のものが立ち上がる。またたく間に振り仰ぐほどの背丈になっていた。
「ハゥ・ドゥー・ユー・ドゥ?」
 大きな帽子を斜めに被った貴婦人のように見えた。血の服を着こんでいる。ステイカーが呆然としていると、そいつは大きく口を開けて鮫のような牙を見せ、店が震えるほど叫び声を上げた。
 
 
 
 エリファはハンドルをそわそわと叩いて時が過ぎるのを待っていた。車内の古いデジタル時計は予定の時刻まで四分をもう切った。窓から店舗の暗い出入り口を見た。〈キャロビーズ〉社の飲料の広告看板、割れたガラス扉……車内でじっと待っているが、何の変化もない。兄は二人を見つけただろうか? もし時間までに誰も出てこなかったら、本当に一人で走り去らないといけないのだろうか——不安で心臓がどきどきしてずっと気分が悪かった。
 どうしてあんな無茶なことを頼んでしまったのだろう、と彼女は後悔していた。こんなはずじゃなかった。警察とか、救急車とか、たくさん人がいて、すぐにあの二人とも再会できるものだと思っていた。しかし、彼女の兄は違う考えだったようだ。街に入った時から顔つきが変わって、何か異変が起こっているとわかった時には、もういつもの兄とは雰囲気が違っていた。彼女を怖がらせないように彼が気を遣っている様子は伝わっていたが、些細な機微に気付かないエリファではなかった。銃を持って向かっていく兄の後姿を見て、人を助けることは簡単なことではないのだと知り、かなり動揺をした。
 残り三分だ。くよくよしていても、時間は待ってくれない。今は兄の言いつけを守らなくては——以前はそういう仕事をしていた人だから、一番良い方法を教えてくれたはずだ。
 エリファは、はっとして窓に張り付いた。店舗から人が出てくる。
「マックス!」
 一人だ。兄とリンジーと犬がいない。マックスは大慌てで走り、時折り店を振り返っている。身に迫る恐ろしい者がいないか確かめているみたいだった。
「聞こえないの? ここだってば!」
 ドアを開けて顔を出し、大声で呼んでいるが、反応がない。こちらを見てくれない。焦っていると、くぐもった銃声が三発聞こえた。彼女は反射的に身を竦める——何かあったんだ! 今度は間断なく銃撃が続く。何発も何発も何発も……
 エリファは運転席に戻り、GT―Rを急発進させた。すぐに急停止し、マックスの進行方向を塞ぐ。これなら誰でも目に入る。また大声を上げようとした時、何の前触れなく激しい耳鳴りがエリファを襲った。鼓膜を貫くかのようだった。一秒にも満たない時間、キンと聴覚が狂い、徐々に元に戻る。混乱のさなかに目を上げると、マックスは駐車場の真ん中でばったりと伏せている。そのまま動かない。撃たれたのだと思った。
 エリファはとっさに運転席から転がり出た。「——どうしたの? マックス!」
 幸いにも銃弾は跳んでこなかった。エリファはうつ伏せになっている彼を助け起こそうとした。両耳からワイヤレスイヤホンが落ちる。このせいでエリファの声が届かなかったのだろう。彼は大きな怪我をしていないようだったが、顎を擦りむいていた。
「ねえ、聞こえる? 車に乗ろう! ここは危ないから……」
 激しく揺すられても、マックスはぼうっとしてどこか遠くを見ている。心ここにあらずといった感じだ。一体どうしたんだろう? どんな相談事をしても、こんな反応を見せたことはなかった。
 マックスはゆっくりとエリファに顔を向ける。ぽつりと言った。
「そうだね、行こうよ。ぐずぐずしちゃいられない」
「……?」
 戸惑うエリファに、マックスはにっこりと優しく笑った。「行こうよ——この世界のどこへでも。私達は行かないといけないの。ここよりもっと素敵な場所へ!」
 目を充血させて半ば恍惚としている相手に、エリファは言葉を失った。
 と、犬の吠え声が迫ってくる。兄のジャーマン・シェパードがエリファ達のそばへ猛スピードで駆け寄ってきたのだ。その警告的な音は、獰猛な咆哮へと変わった。ブレイクは車に向けて激しく怒り、吠え叫んでいた。
 ぐしゃっと潰れる音がした。背後を見ると、GT―Rの荷台が食い破られ、後部から沈み込んでいる。車体は引き裂かれ、何者かが大きな咀嚼音を立てながら、金属ごと何かの動物を食べている。そいつは満足するまで食べ尽くした後、屋根に登って、車体を傾げさせた。
 怪物としか言いようがないものが半壊したGT―Rの上からエリファたちを見下ろしている。四つの目がかっと見開き、憎悪に赤く燃え、四肢がねじくれている。蠢く布が肩から垂れ、脇の下を通って背後に広がり、薄暗い空に漂う大きな黒い影となっていた。
 怪物の口から死骸の一部がはみ出し、ぶらぶらしている。ぶッ——! と吐き出した。エリファの隣に嫌な音をたてて落っこちる。犬の足だった。
 エリファはマックスにしがみつく。恐怖のあまり発作のように息苦しかった。
「な、なんなの……」我に返ったマックスはがたがたと震えている。二人ともどこへ逃げるべきか見当もつかなくなっていた。
 怒れるブレイクが弾丸のように突進した。GT―Rのボンネットに飛び乗り、牙を剥きだしにして怪物と真っ向から対峙した。
 怪物は真っ赤な四つ目をシェパードにやると、狂暴に吠えて食らいつこうとした。しかし犬はそれよりも素早く駐車場へ逃げていく。怪物は獣じみた動きで這い下り、ブレイクを標的として追い始めた。

 
 


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【2022/01/20 掲載】

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