セッション 07

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 07
 
「――あなたここで永遠に死ぬのだし」
 月光の下で、吸血鬼サンクチュアリはそう言った。
 先程も言ったが彼女は片目で、片腕の状態だ。肢体は不完全であり、左袖が風にめくれてはためいている。何倍も体格差のある相手に対する態度ではない。どこからその自信が出てくるのか? だが、その存在感は圧倒的だ。
 バックウェルは気圧されている。サンクを凝視したまま、恐れ、混乱し、激しい動揺を見せていた。
 と、巨体に変化が起こり始める。盛り上がった肩の組織が、まるで意思を持ったように集まり人の顔に変わった。犬の頭よりは一回り小さく、表面はただれている。しかしその口から人間の言葉が出てくるとはステイカーも思いもしなかった。
 怪物は不気味な声をあえがせている。
「お前が――穢れた――冒涜者――」
 サンクは首を傾げる。”へえ、喋れたの?”という顔つきで。
「夜を彷徨う者、土還らずよ――不死の末裔と敵対するのか――血族全てと争うというのか――」
 サンクは小さく息をつき、柄を持ち上げてそれとなく刀身を見下ろした。ぎらりと月光が返る――飢えた輝き。
 彼女はつと目だけを上げる。
()()()()、」自身も”お嬢さん”と言われるような外見であるが、続けて言うことには、
「こちらの古い掟ではこうなの。”血の獣畜は狩り殺せ”」
 人智を超えた者同士の話し合いは徹底的に破り捨てられた。彼女は、やるつもりだ。
 ステイカーは吸血鬼とダンピールの双方をさっと見やり、大人しく数歩下がることにした。一旦こうなれば近くで立っているのも危険というものだ。
 サンクに支援が必要かどうかを聞く必要はない。特に最近は言わずともわかるようになってきた。殺しの時間だ。
 ステイカーが局地的な戦闘領域から脱したと見たか、吸血鬼が動いた。
 バックウェルへと向かうサンクの前に、ふた首DPの方が飛びかかってきた。脅威を排除すべく周囲から集まってきたらしく、何体も彼女の行く手をふさいでいる。
 だが、それに何の意味があるだろう?
 DPの白い体が吸血鬼に到達する前に、彼女の片腕から一閃が放たれている。血飛沫が、薙いだ方角に勢いよく吹き出した。DPの悲鳴はなかった。一太刀で絶命させたのは明らかだ。首がない。サンクが次のステップを踏み出した時は、その姿は血煙の中に消えていた。
 彼女は黒い影のようなものだ。おそろしく静かで、けた外れに早い。文字通り目にも止まらぬ動き方をする。
 夜に影は見えない。
 瞬く間に、二メートル先で白い死体が地面に叩きつけられた。肩から腹にかけてばっさりと切られている。激しく飛び散った血だまりを、サンクはゆっくり歩く。血の中から突然現れたかのようだった。
 ダンピールの間で恐れの感情が伝染した。サンクの四白眼に見据えられれば無理もないことだが。
 殺戮の始まりである。DPは集団で殺到したが、わざわざ殺されにきたようなものだ。彼女が片目で片腕であろうとも関係がない。踏み込みと同時、刀は白い胴体を引き裂き、姿が消え、別のDPの背後に回ったあとは、そいつの股の間から頭の先までを両断した。岩をも割らん勢いだ。四体のDPがいろいろな方角から絶え間なく襲いかかるものの、サンクは()()()もっとも近くにあった頭を地面に潰しきり、やや遅れて肉薄してきた二撃目を軽く飛んで、相手と入れ違うようにかわした。刀は彼女の思いのままらしい。数秒前、切り上げた時にどことも知れず夜空に放られていたのに、次の瞬間には手の中に納まっている。たちまち逆手に構えたサンクは、三体を素早く切り伏せた。そうして死体に目もくれず、彼女は走り出す。目指すはたった一つ、バックウェルである。
 短期決戦だな――ステイカーはそう思った。サンクチュアリはただごとでなく強いが、不完全な身体では手数が限られてくる。長引かせるのは得策ではない。
 こちらもやれることをやっておかなければならない。今のうちにジュンスを助け出すのだ。ちょっと前にあの怪物とやりあったせいで、ステイカーとジュンスは距離があいてしまった。サンクの戦闘域を迂回する必要がある。
 獣の醜悪な叫び声が轟く。ステイカーはバックウェルの動向を横目に、移動を始めた。相手が突然気を変え、彼かジュンスに襲い掛かってきても対処できるようにしたかった。どうせ死ぬとわかっているのなら、誰か一人でも道連れにしなければ気が済まない。そんな思い付きが絶対にないとも限らない。――サンクチュアリがそれを許すかどうかはまた別の話だろう。
 バックウェルが、他のDPとは比較にならない巨体でもって、サンクに挑みかかる。白髪を身体に絡みつかせたまま突進し、腕を振りかぶった。身体ごと持ち上げたその攻撃は、サンクと比較すれば彼女をすっかり覆い隠すほどで、まるで大きな暗闇が押し寄せてくるようだった。どおん、と屋上が揺れる。
 ステイカーはバランスを崩して屋上の縁にぶつかった。思わず悪態がもれる。こんな調子で建物が崩れないのが不思議だった。
 目を上げたとき、サンクは既に一撃を入れた後だ。相手がのしかかってくるよりも素早くその懐にもぐり、横っ腹を切りつけている。
 鮮血が白い体を染めた。
 痛手を負ったバックウェルは叫び、狂ったように巨体をよじり、全身で暴れている。本能のままの動きだった。蜂に刺されたので、慌てて転げまわっているやつにも見えた。とにかく無茶苦茶に動き回っているのだ。危険極まりない。サンクは後方に二度それを飛んで避けたが、相手の挙動が不意だったせいか、長い手が彼女の横面を殴っている。力のかかる方向に身体が崩れたが、サンクは踏みとどまった。その時、予期せず頭の包帯がほどけた。遠目からでも彼女の顔はブラッディ・プールで見た時と一つも変わっていないことがわかった。痛ましい――半分だけ剥き出しになった頭蓋。口元の鋭利な牙。すぐに黒髪に隠れたが、彼女の右目は青く滾っている。
 バックウェルが起き上がり、俊敏に離れた。やや理性を取り戻したと見える。また叫ぶ。だが、その音は笑いを含んでいるように聞こえた。吸血鬼も徹底的に負傷しているのだ、何を恐れる必要がある?
「おかしいわよね」黙っていたサンクが、唐突に口を開く。「()()()()に滅ぼされるなんて」その無感情な声。
 それが相手を怒らせたらしい。バックウェルが腕を薙ぎ払い、周囲に落ちていた鉄骨やら何やらを吹き飛ばした。それから突っ込んでいく。サンクは投擲物を一太刀、二太刀と叩き切る――怪物の蜘蛛のような長い腕が、火花を散らしながら地面を引っ掻き、サンク目がけて鋭く突き上げられた。だが、その小さな体は暗闇の中に消えていた。
 次の瞬間には宙を飛んでいる。バックウェルの目の前で身を捻り、逆さまに見下ろしていた。その時、相手はどう思っただろう? 刃を口元に噛んで、大口径の銃を恐ろしいスピードで銃撃してくる相手を?
 弾丸は殺戮の速度でバックウェルの爪を徹底的に砕いた。指先は肉塊に成り果てる。……
 ステイカーが滑り込むようにジグまで辿り着いた。がたがたになった鉄骨の下でジュンスはすっかり気を失っている。生きているのには間違いない。
 何か手掛かりになるものがないか、ざっと周囲を見渡す。
 と、
「ジュンスは無事なんだろうな?」アルファ3が言う。
 チームの二人がエコー4を伴い彼のところまで走ってきたところだった。三人ともステイカーと同じようにサンクが来るまでの間をなんとか耐え抜き、そのあと隙を見てやって来たらしい。アルファ二人はサンクチュアリのことを知っているためそれはともかく、何も知らないエコー4などは仰天したままなのか、吸血鬼を凝視している。
「あいつは一体、なんなんだ?」
 あちらを見ながらおぼつかない足取りで呆然とする。かわいそうだが彼に構ってやる暇はなかった。
「これより酷い傷のやつを見たことがある。さあやろう」
 ステイカーは拾った鉄の棒をエコー4に押し付け、仕事を促した。
 全員で力を合わせて鉄骨を持ち上げる。軋んだ音を立て、ゆっくりと隙間ができていく。一人では不可能だったがチームで事を成せばなんとかなるものだ。ステイカーはすぐさま身を屈めてジュンスを引きずり出した。骨折していることがわかっている以上、荒々しい扱いをしたくなかったが、仕方がない。彼を完全に助け出したところでタワークレーンの腕は再び屋上に落ちた。
 ジュンスのガスマスクをはがし、彼を地面に横たわらせた。ぐったりと青ざめている彼に、ステイカーは話しかけた。
「よく頑張った。すぐにここから抜け出すぞ、いいな?」ジュンスの瞼が痙攣した。意識が戻り始めているようだ。こいつもなかなかタフなやつだな、とステイカーは感心した。
 エコー4と二人でジュンスの傷の具合を見ている間、アルファの二人は周囲を警戒し、時々銃を撃っていた。ほとんどのDPはサンクに向かって行ったが、凶暴な残りかすがいまだ活動していた。
 ジュンスの状態は良くはない。しかし、最悪の結果でもなかった。足は折れているがそのうち元に戻るだろう。ほかの部分もまずまずと言ったところだった。頭の傷は簡単に手当てできるものだし、肋骨骨折も軽かった。
 ステイカーが骨折部分の応急処置をてきぱき行っていると、
「通信が回復したみたいだ。アルファ7があんたを呼んでる」隣でエコー4が自分のイヤホンを叩いた。「何がなにやらさっぱりだぜ!」
 ステイカーはジュンスの無線機を使って応答した。
「アルファ1だ」
 すぐに反応が返ってきた。
〈アルファ1、こちらアルファ7。診断結果を教えよう――お前には自殺願望があるとみた〉
 ウィリアム・ハントが言う。〈化け物と崩壊するタワークレーンの足元に突っ込むやつは世界を探してもお前だけ。どうぞ〉
 ピンピンしているようで安心した。
「そうかもな。そっちは?」
 ハントのいる西側は、立地と環境条件を考えれば死地同然だったはずだ。
〈すげえ量のDが来たよ。ゴキ犬が始末してくれた〉
 念のため持たせておいたDOGs(補給犬)がタレットに切り替わって活躍したらしい。そのフォルムがゴキブリと犬に似ているという理由でハントはそう呼んでいる。
「アルファ7、現在地は」
〈屋上だ〉
 西側を見れば同じ高さで明かりが点滅していた。
「動けるか?」
〈すぐにでも〉とハント。
〈アルファ1。こちらアルファ2〉レイ・ダウリングだ。〈状況は?〉
「エコー1を救出。()()が来た」
 その時、バックウェルの尋常でない悲鳴が彼の耳をつんざいた。背後では馬鹿でかい腕が切断され、五メートルばかしぶっ飛んでいる。おびただしい量の出血が屋上の一角を血染めにした。
 ステイカーはたわんだ鉄骨に腕をもたれて、狂声にかき消されないようイヤホンを押し付ける。
「サンクはいつもの調子だ。無人機は来ないらしい」
 とっくに時間は過ぎていた。爆弾の代わりに、吸血鬼が降ってきたのだ。
WTF(なんてこった)、不死身かよ〉さすがのレイも一度は驚いた。〈こっちはGと合流して脱出済みだ。近くにEもいる〉至極当然のように報告する。
 あとで分かったことだが、レイとエコー7の二人は不運にもDPの巣穴に正面から突っ込んでしまったそうだ。レイは装備の一部をステイカーに貸していたので遭遇した時酷く後悔したに違いない。だが無線では億尾にも出さなかった。
 連中ときたら――まったく、こうでなくては!
〈全部彼女に任せちまうか?〉と、レイ。
「待て。HQ、聞こえているか? HQ、応答を求む。こちらアルファ1だ」
 もしかしたらと思って呼びかける。しばらく間があいたが、聞きたかった声が耳に入る。
〈こちらHQ――ああ、やっと繋がった。ポランスキーよ。全通信が復旧したわ〉心の底から安堵したような声だった。〈何故かと聞くのは後にしましょう。アルファ1、報告なさい〉
 なんにせよ、意図せず本部と切り離されるのはステイカーも心安まらなかった。彼は言う。
「東屋上に五名、うち一人負傷、西屋上一名。他、撤退完了。Eセッションに三名の負傷者がいるが命に別状はない。それと聖域が来た」
 少し遅れて、ポランスキーが応答する。
〈HQ、了解。こちらでも位置を確認できた。医療班がそちらに向かっているわ。もう知っていると思うけど無人機は追い返した――サンクが起きたから〉
「了解した。聖域は現在、バックウェルと交戦中だ」
 サンクが初めから起きていたということを彼女は知っているのだろうか? ステイカーは疑問に思ったが何も言わなかった。
〈了解。エコー4の視覚映像から現在の状況を確認する。エコー4、DPをよく見て――なるほど、よくわかった〉ポランスキーは素早く見極め、心得たように言う。
〈こちらHQ、全セッションに告ぐ。作戦は(ヴァンキッシュ)・Dに移行する。アルファ1、聖域の行動支援をあなたに一任するわ〉
〈アルファ1、了解〉
〈アルファ2はEとGとともに残党を掃討して。屋上にいるものはアルファ1の指示に従うこと〉
〈アルファ2、了解〉
〈Gセッション、了解した〉
 ……
 ステイカーが無線でやり取りしている間はエコー4がジュンスの応急処置をした。副木と包帯で全身を固定されているジュンスはフランケンシュタインのようだったが、おかげで安全に担架で運べる状態にある。
 ステイカーは戦闘領域を振り返る。バックウェルはかなりの深手を負ったところだった。サンクの踊るような跳躍の後、致命の一刀が顔面に浴びせられた。犬の頭を引き裂かれたバックウェルは屋上に倒れたが、なんという体力か、すぐに起き上がって巨体に似合わない速度で走っていく。縁を乗り越えた。
「逃げるつもりか?」
 ステイカーは驚愕した。相手もダンピールとはいえ、相当の量の血を失っているし、片腕もない。先ほどの一撃によって下顎はほとんどちぎれかかっている。
 バックウェルは壁面の足組みをばきばきとなぎ倒しながら中庭に降りていく。サンクも軽やかな身のこなしで屋上から飛び降りた――落ちる瞬間、彼女はステイカーに視線をやり、促すように頭を傾ける。
 ステイカーは彼らを追いかけた。縁から身を乗り出して中庭を見下ろす。照明の中、資材と工事車両がひしめいているのが見える。奥に大きな穴――地下排水設備の下にある古い排水パイプ。間の悪いことにバックウェルが通れそうなほど大きかった。
「こちらアルファ1、やつは排水パイプに向かってる。アルファ7、どうだ?」
〈アルファ7だ。汚水の量が多すぎる。サンクが通るのは無理だな〉スコープでも確認できるくらいか。ここ数日降り続いた大雨のせいかもしれない。
 バックウェルが逃げ切る前に片が付くかが問題だった。
 しかし、サンクは走っていない。車両を払いのけながら逃げ惑うバックウェルを見つめ、静かな足取りで近付いている。どうすべきか迷っているのか。だが彼女の気迫は先ほどよりも増しているように思えた。
 と、サンクが珍しく通信を寄越してくる。
〈ジャック。手は打ってある〉
「なんだって?」
 怪訝に聞き返すと、思いもしない声が割って入ってきた。
〈こちら(ブラボー)セッション。アルファ1、お困りか?〉
 無線の声の主は、Bセッションのリーダー、ブルーノ・ヒギンズだった。音質がざらついていて少々聞き取りづらい。
 ステイカーは驚いた。(ブラボー)のことはすっかり頭から抜け落ちていた。当然、現場に間に合うとも思っていなかった。半日前までは欧州にいた連中だ。
 彼は半信半疑の顔で聞く。
(ブラボー)、現在地は?」
〈くそ汚いパイプの中だ! 時間がないから手短に言う。今からこの穴を塞いでやる。よく見ておくんだな、サンク(ヘルキャット) 花火の時間だぜ!〉
 背後で最高潮に盛り上がっている様子が漏れ聞こえた。Bセッションの馬鹿騒ぎぶりが目に浮かぶようだった。
「正気か? 逃げられるんだろうな…」信じられないが、中から崩落させるつもりらしい。
〈あとは入口に戻るだけ〉と、ヒギンズ。侵入経路を引き返すのか。
 ヒギンズは続けて言う。
〈バケモンの正面に飛び出すより、ずっといいね!〉
「こちらHQ。爆破を許可します」ポランスキーの容赦のない判断が続く。
 そうこうしているうちに、バックウェルはもう少しでパイプ穴にダイブできそうな距離にいた。
 彼も迷ったが、結局、
「よし、(ブラボー)。タイミングを合わせろ。スタンバイ、スタンバイ……やれ」
 直後――どぉん、と腹に響く爆音がした。
 花火の時間とはよくいったものだ。崩落と同時に、夜空に多彩な炎色反応が咲き乱れた。ぴゅーぴゅーというロケット音が四方に飛び交い、火薬が延々と爆ぜている。
 バックウェルは足を止め混乱していた。突然、目の前で逃げ道を塞がれた。周囲はモールに囲まれ、背後には吸血鬼がいる。目も眩む火薬も場に一役買っている。
(ブラボー)、成功だ」無線機から返答はない。「あいつら本当に馬鹿だな」
 エコー4とアルファの二人がステイカーの近くに来て、困惑したように中庭を覗き込んでいる。
 ステイカーは彼らに向けて、
「連中は馬鹿だが、ああいうやつらがここぞという時に頼りになる」
 三人は唸った。自分たちに同じ真似ができるかどうか考えているのかもしれない。
 爆発と花火のせいだろう――気絶していたジュンスが反応を示した。彼は携帯担架に乗せられ、ステイカーのすぐそばにいたので様子がわかった。彼は夢にうなされるように呻いている。
「お前は生きてるぞ」と、ステイカー。
 花火は束の間で終わり、再び暗夜が訪れる。サンクが刀を水平に構えた。
 これで終わりだな。
 彼はそんな確信めいたものを感じる。だが、まだ油断はできない。いつでも行動が取れるよう戦闘領域を見つめる。
「僕は失敗したんです……」と、ジュンスはうわ言を口にする。「みんなを危険に晒した……」
 ステイカーはちらっと彼を振り返り、また中庭を見下ろした。ジュンスは泣いているように見えた。
 ステイカーは小さく息をつく。
「お前は確かに選択を誤ったが、瀕死のダンピールを助けようとしたことはみんな知ってる。お前の正義感は俺にはない。ここの誰にもだ」
 ステイカーは続けて、
「長い目でみれば、いつかそれが俺たちの最大の助けになる。ダンピールと深刻に敵対しなくてすむかもしれない。瞬間の判断で、そういう未来は俺には描けない。わかるか? お前だからやれたんだ」
 ジュンスは鼻をすすっていた。
 やれやれ、まいったな。ステイカーはそんな心地で顔を触ると激烈に痛んだ。過剰なアドレナリンで痛覚が鈍くなっていたが、ひどく腫れているに違いない。内心、顔が元に戻るか心配になった。
 そんな痛みは放っておき、
「……それにエコー4は怒って俺に掴みかかる寸前だった。お前を思ってのことだ。お前たちは、いいチームだ。金で集まった傭兵じゃないってことを明らかにした。俺はそれが喜ばしいね」
 ジュンスは頷き、顔を拭いた。「大丈夫です。僕はまだやれます」
「怪我を治してから言ってくれ」とエコー4。アルファの二人もジュンスに話しかける。
「そうだぞ、足の骨が()()()()折れてるんだ」
「安心しな、ジュンスのぼっちゃん。()()()()()()()()じゃない」どちらも気休めである。
 中庭では血が飛び散っている。バックウェルは逃げることを諦めてサンクに襲いかかるが、所詮は力の差が歴然としていた。見ていると哀れみすら感じる。怪物は咆哮で中庭を満たし、無謀な突進を繰り返した。楽にしてやるべきだった。
 サンクが鋭く踏み込む。
 一閃が振り切られた。
 バックウェルの胴体はしばらく走り続けた。その後、蹴躓いたように首から地面に突っ込み、工事機材のなにもかもをひっくり返す。地鳴りと土煙が荒れ狂った。遅れて――サンクに狩られた怪物の首が亡骸の隣にどんと落ちる。
 静寂に包まれた。
 サンクは刀を振って血を払う。逆手に携えた刃に暗闇が絡みつき――ステイカーにはそう見えた――いつの間にかきっちり納刀されている。彼女はごく自然に歩き出しその場を離れた。嫌味なくらいの美しい足取り。血生臭いことなど何も起こらなかったかのようだった。
 ステイカーが終わった旨を報告しようと無線機を掴んだ時、
「待て、まだだ!」
 鋭く叫んだ。
 サンクチュアリの背後で、バックウェルの胴体が音もなく起き上がった。恐ろしく素早い動きだった。あの大きく膨れた腹が今にも中から飛び出さんばかりに痙攣し、しまいには裂けていく。皮膚を破る音が屋上まで届いた。胸郭の真下で血潮が吹き出し――
 全ては暗闇に飲まれた。
 サンクが振り返ると同時に、バックウェルの胴体はまたたく間に四方から圧縮される。片やもう一つ変化はあった。吸血鬼の空っぽの左袖が突如肉を持ち、ひらりと手首を返して腰に当てられたのだ。
 ステイカーは自分の認識を改めた。初めはあの巨体が圧縮されていると思ったが、そうではなかった。黒い影――バックウェルを飲み込むほどの()()()が、闇の奥から手を伸ばし、完膚なきまでに肉塊を握り潰した。
 血の雨があたりに降り注ぐ。
 場が凍りついた気配。何度かその光景を見ているステイカーですら、魂が冷える思いがした。
 しかし、
〈悪魔の呼び声が、聞こえなかった?〉
 血の雨の中心で、サンクチュアリだけが平然としている。
 パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。()()()()()()()()()()()()
 誰かが小さな声で「Jesus(こんちくしょう)」と呟くのが聞こえた。
 
 
 
 暗い廊下を突き進む。黒い戦闘服に強襲装備を身に着けたジャック・L・ステイカーはMAR上の敵を見つけては掃討を繰り返していた。
 金属を叩き割るような音が飛び、対象を深く撃ちつける。
 通路で寝ていた案山子がバネの力で起き上がった。頭部と胸部に二発ずつ撃ち、赤色が消失したことを確認して前進を続けた。前に扉。その向こうに、EAPによる赤い反応は二つ。視界の隅では時間制限が迫っていた。
 彼は迷わず室内に突入して、左右にいる案山子を完全に撃ち抜いた。
 真正面に、金髪の女が棒立ちになっている。
 ステイカーは無心で引き金を絞った。
 ――が、突如として眼前にサンクチュアリが現れた。前触れはなかった。一瞬で視界に燃焼が広がったと思ったら、彼女がいたという具合だ。
 驚いたなんてものではない。臓腑が縮まった。サンクが出てきたことで、彼は全力で自分の力に抗って照準を脇にそらさなくてはならなかった。凶器の釘が壁めがけて、無秩序に突き刺さる。
「何をして――!」
 ガスマスクを押し上げて思わず声を荒らげたものの、そこから先が続かない。
 サンクの青い目に見つめられたら気勢が削がれるというものだ。彼女の顔は美麗さを取り戻していた。
 一方、ステイカーの顔はまだ絆創膏が取れていない。彼は軽く息をつく。
「……何をしてる?」
 サンクは素っ気なくステイカーの銃を見下ろし、
「今度は黒髪のアジア女が脅威になるかも」
 ゆっくりと彼の周囲を歩き、別の案山子に背中を預けた。どういうわけだか、サンクの体は完全に元に戻っている。巨大な一体が生贄になったせいだろうか。
 ステイカーは正面の金髪女を二度撃つ。釘は板を貫通してやはり壁に撃ちつけられる。
 訓練はそれで終わりだった。暗い室内に、ぱっと照明がつく。
 ステイカーは銃を下ろした。
「シスが君に話があるそうだ」
「一つも怒っていないと言っているのにね」と、サンク。二人に何があったのか知らないが、ともかくポランスキーの伝言はつたえておいた。吸血鬼は気まぐれに姿を現すので捕まえるのが大変だった。
「アルファ1の映像を見たか?」
 サンクの返事はない。しかし肯定であることは雰囲気でわかった。そして彼女がここに来た理由も。
「……俺の失敗じゃないかと思ってる」
 あれから三日が経とうとしていた。〈アダムの骨〉は議論の深みに嵌っていた。
 つまり、いつどの時点でバックウェルのようなダンピールを脅威と判断して排除するのかという点だ。変異は突然起こる。しかし〈R2クラブ〉の情報は欲しい。結論は出なかった。今の技術力では短時間で相手を解析することは難しいのだとみんなわかっていたが、現場に出る人間にとってはそう簡単に話は終わらない。議論は繰り返された。Aセッションは何度も状況を吟味し、映像を再生し、お互いにがつがつと指摘をしあって改善すべき点を考えだした。辛い作業だが、必要なことだった。Eセッションはダウリングとハントが面倒を見て、同じように「お前、なにをやってんだ?」と聞いている。ミナ・リュードベリは頭を抱えて徹夜でプログラムをいじっている。ポランスキーが一番大変だった。合衆国政府に対象の殺害理由を報告して後始末に追われている。Bセッションのことから立て続けなので尚更だろう。ついでに言っておくと、当のBはぼろぼろになって基地に帰還した。戻ってくるなり、「なんでここのDPどもは泳げるんだ?」とずぶ濡れのまま腹を立てていた。ジュンスは手術を受け、現在治療に専念している。
 そんなわけで話し合いに出口は見えず、疲れた彼は先に抜け出したのだった。他のやつらはまだ作戦室にいる。いたいやつは好きなだけいればいいが、頭が疲れるといい案も浮かばない。
 しかし、ステイカーには一連の不始末は自分にある気がしてならなかった。誰も気が付いていないことだ。みんな彼の内心のことなど知る由もない。
「一瞬、撃つのをためらった」ステイカーは白状する。「あれを見た君なら、わかるだろう?」
 泣いている金髪女性の顔が脳裏に浮かんだ。照準器を挟んで、時間が止まったあの瞬間、
「誰にも止められなかったわ」
 サンクはコートのポケットに両手を突っ込んでいる。「必ずそうなると決まっていたのよ」
 その関心の薄い口調――慰めているつもりなのだろうか。相変わらず誤解されやすいやつだな、とステイカーは思った。
 わずかばかりの沈黙を挟み、彼は出し抜けに言う。
「昔、付き合ってた女性がいた。ダンピールだった」
 サンクが目を上げる。
「多分、俺は彼女が好きだった。人間じゃなかったが、人間と変わらなかったし、上手くいくような気がしてた。だが……思い違いだった」
 芸術的な編み紐模様の前で、金髪の女性が微笑んでいる。
「全てはまやかしだった」
 結末まで言う必要はなかった。サンクチュアリなら、言わなくてもわかるとステイカーも知っていた。全部を打ち明けなくてもいい相手になら話すのも気が楽だった。相手もお喋りな性格じゃない。
「自分の身を守るためだから仕方ないと思うようにしたんだ。これはよくあることなんだと自分を誤魔化した。付き合っていた期間も短かったし、大したことじゃないと。だけど、忘れることはできなかった」彼は深い溜息をつく「俺はずっと傷を抱えていたんだ」
 サンクチュアリは変わらない調子で言う。
「自分の傷に気付けたのなら、治すことだってできる」
 その通りだろう。
 問題なのは、痛くないふりをすることだ。
「……バックウェルはマクマートンの弟の方と深い付き合いがあったようだ」彼は話を変えた。
「ややこしいことにバックウェルは政府機関の情報部の出という話だ。スパイなのか、初めから〈R2クラブ〉のために働いていたのか、それとも途中で気が変わったのか、まだ不明だ。だが、紛れていたとしてもおかしくはない」
「私には彼女は何もかもを辞めたがっているように見えた」
 意外なことを聞いてステイカーは眉を上げた。どの時点でそう見えたのかは気になるところだが、
“待って、お願い、私は――”
「なるほど、そうか」
 バックウェルの最期が腑に落ちる。DPと仲間割れを起こして、監禁された可能性がある。もしかしたら、理由はあの腹の中にあるのかもしれない。
 正直に言って、あまり知りたい話ではなかった。
 サンクは肩をすくめた。
「どちらにせよ、間に合わなかった。元の人格が吹き飛ぶほど血が暴走していた。始末するしかなかった。そのために私が来たのだから」
 そこでステイカーは思い出し、サンクに聞く。
「起きていたって、どういう意味だ? もっと早く来られなかったのか?」
 彼女の細い溜息。
「あのね、ジャック」サンクは浅くかぶりを振る。「起きてはいたけど、指一本動かせるかどうかはまた別の話よ」
 あれだけの動きをしていてか? 到底信じられる話ではない。だが、普通のやつなら起きてはいけない状態だったし、起きられるものでもないだろう。頭が混乱してくる。
 こちらの考えていることが顔に出ていたのか、サンクは不機嫌そうに言う。
「仕方ないでしょう。私の意思が優先されない時があるんだもの……」
 ステイカーは話が見えずに困った。吸血鬼と話すと、時々こういうことがある。
「何かこっちにわかるような合図を出してくれてもいいんじゃないか? 微笑んでみせるとか」
 その提案は無視された。彼女は平気な顔をして言う。
「自分の墓を見に来る人間の顔を見るのは、間が抜けていたわ。ねえ、ジャック?」
 この美しい女は、本当に性格が悪い。ブラッディ・プールに最も多く訪れたのは彼だと知っているのだ。
 ステイカーは言い訳がましく言う。
「心配してたんだ。二度と目が覚めないかと」
「その方がよかったといずれ思うはずよ」
 彼女は案山子から背を離して、その場を後にしようとする。
「なあ、サンク」
 足を止める。
「俺に、君は殺せないよ」
 サンクチュアリは、ふんと息をはいた。「いくじなし」と、彼をなじる。
「それでは面白くないでしょう……」
 吸血鬼の姿は煙のように掻き消えた。
 ステイカーはしばらく一人で立っていたが、やがて仮設ハウスから出ていき、床に降り立った。例によってクレーンが自動的に解体作業に取り掛かる。彼はいつものようにガラス張りの監視室に赴き、中に入って、監視役の友人がゲームに興じている事を知りがっかりする。
 しかし、今日は少し違うことがあった。友人はゲーム画面から目を離さずに中指を一本立てて見せつけたあと、引き寄せられるようにコンソールに移動させてキーを叩いたのだ。
「あんたはなにをやっても満点だよ」と彼は言う。「俺が見る必要なんてどこにあるんだ?」
「いつも助かってるよ」と、ステイカー。
 友人はへえと感心する。「ところでジェイ、お前は誰と喋ってた? 監視カメラからじゃ、見えないやつと話し込んでるように見えた」
「きっと妖精(シー)だな」
 適当に言いながら身体からスリングを外す。
 お喋りな友人は続けて、
「なあ、俺はいまだに夢を見ているんじゃないかって思う時があるんだよ。ここに雇われたから自分の仕事をしているが、正直に言ってまだ実感がわかないんだ。世界の事情ってやつがさ――信じられるか? 世の中の9割以上が吸血鬼の血をひいたダンピールで、そいつらの手で世界が回っているなんて。ダンピール達だってそんなことは夢にも思っていないだろうな。だって、ぱっと見は俺たちと一つも変わらないんだから……」
 ステイカーは聞き流しながらコンソールを操作して必要な情報を集めた。自分の仕事を終えた後、彼は何も言わずに部屋を出る。
「おい、どこに行く?」
 階段の途中で立ち止まる。ステイカーは肩越しに友人を振り返り、「ティータイムだ」と言った。
 
 
(了)
 

 


【2020/01/16 更新】

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