縦横切り替え
03
「ブレイク!」
エリファの大声が荒れた夜の駐車場に響き渡る。シェパードは全速力でアスファルトを蹴り、ぐんぐんとエリファたちから離れていく。その背後には、蠢く衣をばたつかせた四つ目の化けものがその背後を追っていた。
怪物が金切り声で犬の背中に飛びかかった。その鋭いかぎ爪は、突然シェパードが急旋回したため、あわや毛先をかすめるだけに終わったが、その代わりにアスファルトを引っ掻いて火花を散らせた。
ブレイクの身のこなしはレーシングさながらの俊敏さだった。放置された車両の間を右に左にと走り抜け、自身を追う怪物を翻弄する――だが、憎悪にたぎる四つ目はシェパードを逃しはしなかった。異様な速度で犬の背後に追いつき、その馬鹿力で影に隠れた車ごと引き裂こうとする。ワインレッドのクライスラー車の後方が派手な音を立てて押し潰された。
エリファは口を両手で覆って悲鳴を上げた。飼い犬が車に巻き込まれ無残に殺されたのだと思ったのだ。しかし悲鳴はすぐに飲み込まれる。潰れた車体の隙間から這い出るものがあった。ブレイクはもがいてその場から逃げおおせたようだったが、その後はまた車の影になってしまい、犬の姿を見失った。
怪物が別のSUV車に文字通り飛びついて、半開きのドアをめきめきと千切り、狂ったように車を揺さぶる。ブレイクは生き延びているが、追い詰められていた。車の中に隠れて八方塞がりになっている。怪物は軋んだような雄叫びを上げ、長い腕でシート一席を怪力で剥ぎ取り、駐車場に投げ捨てた。シェパードが獰猛に吠えたてる。暗い車内で、殺すか殺されるかの格闘が始まった。獣の荒い息遣いと激しく動く影が、犬の必死の抵抗を物語っていた。
四つ目の怪物は自身の体が大きすぎて中へ侵入するのが不可能だとわかると、憎しみの目をぎらつかせ、しゅーと冷気を口から吐きだした。纏っている蠢く衣が裾の方から真っ二つに裂けていく――次の瞬間には布がぐるっと捩れて奇怪な形状に変化した。捩れの先端に化け物と瓜二つの顔が生えている。それが牙を剥き、狭い車内へと突進した。
ギャン、とシェパードが叫んだ。
「何やってんの!」呆然としていたマックスが、別の恐怖を見つけて慄いた。エリファがよろめきながら半壊したGT―Rに向かって走っている。彼は慌てて追いかけてエリファの腕を掴むが、力いっぱいマックスを振り解こうとした。その間も犬はギャンギャンとなき喚いている。
「耐えられない」振り向いたエリファの顔は青ざめていたし、ほとんど泣いていたが、恐怖に打ちのめされるほどのやわな目つきをしていなかった。
彼女はあの勇敢な犬の元へ行こうとしているのだとマックスは気づいた。飼い犬の危機を放っておけないのだ。気持ちはわかるが、それにしても、限度というものがある。狼狽えるマックスを置き去りにして、エリファはGT―Rの扉を開ける。
「馬鹿げてるよ、このオンボロはもう壊れてる!」
ぐぉんとエンジンが唸りを上げた。
マックスは扉を閉めさせまいと間に入ってフレームにしがみつく。
「頼むよ。このまま逃げるって言って。あんたの兄貴が一緒に逃げろって、そう言ってたんだ。あんたの兄貴が正しいよ。だってあんなの、どうにもならないよ。リンディだって――」その時、彼は店で起こったことを思い出した。暗闇ではぐれたリンディを探し混乱している時。棚に挟まれた長い通路の奥で、突然現れた黒い影。何故、ステイカーに詰問された時に上手く言えなかったのだろう? 記憶がばらばらに砕けていた。まるで自分が分裂したみたいに……マックスは首を振って言い直した。「リンディだって、どうなったかわからないんだ。飼い犬のためにそんな恐ろしいことをしないでよ。兄貴の言うことを聞くべきだよ」
エリファのパニック症状はまだ治っておらず、呼吸は乱れたままだったが、彼女はステアリングを固く握りしめて前方だけを見据えている。エリファは鼻を無造作に拭って言った。「お兄ちゃんは当てにならない」すぐに泣きそうな顔をした。「ごめん、本当はこんなはずじゃなかった。でも私が車を走らせれば化けものはあなたに気がつかない」
「頑固者だね! そうじゃないんだ、あんたは巻き込まれただけなんだって!」だんだんと腹立たしくなってきた。状況が全く理解できないのに、自分に責任の一端がある。「ああわかったよ。こんな時に一人で逃げるなんてできるわけないでしょうが? ほら、鍵を開けるんだ!」まくしたてながらマックスは助手席を開けて素早く乗り込んだ。「犬を引き受けることしかできないよ。チャンスは一度だけ」
エリファは頷いて、できる限り静かに車を移動させた。見た目ほど状態は悪くないらしく、車両はスムーズに動いている。ある程度のところでエリファはハンドブレーキを引いた。
「位置についた。つかまっていて」
眠っていた獣が首を起こすように、エンジンの回転数が上昇した。
マックスが唾を飲み込んだ次の瞬間、クラッチが高速のトルクにかみついた。重力加速度によって体がシートに引っ張られる。ジャックラビットスタートで飛び出したGT―Rはさらに加速し、駐車場を凄まじい勢いで疾走した。
マックスは大声で喚いた。正気の沙汰ではないと思った。彼らの車両は犬を咀嚼しようとしている怪物に真正面から衝突し、跳ね飛ばした。全身がシェイカーにぶち込まれたように揺さぶられる。GT―Rは犬がいたSUV車を巻き込みながら大きくスピンし――奇跡でも起こったに違いない――なんとか横転もせず停止した。マックスはエアバッグを払いのけ、咳き込んでいるエリファの肩を掴む。「怪我は?」エリファは乱れた髪を振った。「早く――もう行こう」
扉を蹴って開けたとき、自分たちが生きていることが不思議でならなかった。前方はややひしゃげ、正面ガラスはひび割れ、ペンキをかぶったように血が飛び散っている。相手がなんであれ、もはや無事ではないだろう。車が動くかどうかも心配だったがエンジンはまだ生きている。
マックスが向こう側の車内に呼びかけた。
「おいで、ワンちゃん。来るんだよ。そうだ、車に乗って」
犬はSUVの座席の床に隠れていた。三列タイプだったのが幸いしてあの鉤爪から逃れたのかもしれない。ブレイクは後部から頭を出して、マックスをじっと見ている。昼間はあんなにきれいな毛並みだったのに、今は毛がぼさぼさで耳の根元に血がついている。だが命に別状は無さそうだ。
「ブレイク、ここに来て!」エリファも加勢して助手席の座面を叩く。
興奮した大型犬に近づいてもよいものかマックスは悩んだ。と――シェパードはゆっくり身体を起こし、車から出てくる。軽い身のこなしで駐車場に降りてきた。
「あんたはなんて勇敢な犬なんだ。さあ乗って」ブレイクを助手席に促し、自分も身体を押し込んだ。大型犬を膝に抱えてかなり窮屈になったが、犬の方は気にも留めず、尻尾を振ってエリファの顔をべろべろ舐めている。「悪いけど後にして……」犬の顔を押えて、エリファはGT―Rを操作した。エンジンが空回りしている。それがもう一度続く。
マックスが彼女に顔を向けるとエリファも彼を見ていた。彼女が何か言おうと口を開いた時、車体が大きく傾ぐ。ブレイクが警告的に激しく吠えたてた。次の瞬間、突き上げるような衝撃に襲われた。二人は車体に正面からぶつかり、悲鳴を上げることさえできなかった。後部座席の床からばりばりと食い破られ、何かが侵入してくる。耳障りな金切声が車内に響き渡った。一回り小さい四つ目の怪物が牙をむき出しにしている。それが二頭、床を割り、よじれるようにしながら生えている。あの蠢く衣だったものだ――怪物は車体の下にもぐりこんでいる。
✣
ぎゅっと靴底が冷たいフロアを踏みしめる。ステイカーが無意識に後じさりした音だった。
目の前には血塗れの〈貴婦人〉がいる。さらにその奥では、ひっくり返っていた〈紳士〉がはね起きるのが見えた。
俺に構うんじゃない、と彼は心からそう言いたかった。T3xライフルを握りしめ、一歩ずつ後退する。
もはやリンディの影も形もないその〈貴婦人〉は、ばきばきと骨格を変形させて長くなった腕を片方ずつ掲げた。サーベルのような鉤爪が暗闇に光っている。大蜘蛛が獲物ににじり寄る姿を連想させた。
ステイカーが踵を返すのと、〈貴婦人〉が両腕のサーベルを突き出して飛びかかってくるのは同時だった。凶悪な風が顔の横を通り抜け、あと少しで彼の頭を引き裂くところだった。勢いに翻弄されたステイカーは食料品棚に叩きつけられる。ライフルは手放さなかったが、もはや銃一挺でどうにかなる状況ではなかった。
〈貴婦人〉は着地するとサーベルで床を削りながら身を翻し、ステイカーと真正面から対峙した。それとすれ違う時に見たくないものも目にした。後頭部にリンディのような顔の肉の盛り上がりがあった。閉じたまぶたの厚み、鼻の高さ、少し開いた口元。まるで眠っているようだった。
相手と向き合いになりながら、ステイカーの呼吸が荒々しくなる。あんなサーベル、まともに当たれば腕など簡単に切り落とされる。
通路の背中側には、地獄の住人そのものの〈紳士〉だ。脈打つ血管が体から飛び出し、それが無秩序にあちこちで蠢いている。胸元ではステイカーが刺したステンレス棒から血を滴らせ、肩にあるもう一つの首は千切れかけながらなんとかぶら下がっている。頭のシルクハットだけは文明の名残りがあるが、その下は血の髭と乱杭歯の醜い顔だ。ステッキでとんとフロアを叩いた〈紳士〉は、嫌味なほど気取った動作で取っ手に自分の手を置いた。
暗闇で一閃が光った。無意識の反射だった――刃物を避けようとして彼は身を屈め、食品棚に体当たりしていた。どちらが先に襲ってきたかはわからない。同時だったかもしれない。だが、そのおかげで、彼は切断された棚ごと隣の通路に飛び込むことになった。騒乱状態で金属が衝突している。ステイカーは床にぶっ倒れ、這ったまま前に進んだ。くそくそくそ! ちょうど陳列していたマシュマロが袋から破れ出し、ぽんぽんと周囲を跳ね回っている。彼の頭上では鞭のようにしなる何かが金属棚の三分の一をぱっくりと切り裂いている。
殺される――こんなところでか!
多種多様の菓子が頭上になだれ込んできたためステイカーは身を守った後、すぐさま棚に体当たりした。破壊的な轟音とともに向こう側へ倒れていく。怪物たちの反応を確認する心の余裕はなかった。彼は死に物狂いで通路を走り、陳列棚を曲がり、とにかく走りまくった後、床を滑り込んで物陰へ隠れた。心臓が胸骨の下で暴れ、呼吸は酸素を求め乱れていた。パニックに呑まれかけている――駄目だ、今じゃない、落ち着け! ステイカーは必死で自分を叱咤した。まだ生きてる。同じ場所に留まるな。移動し続けろ。考えるのは後だ――
山積みにしてあるチョコレートバーの箱の端から慎重に顔を出して、すぐに反対側へ静かに動いた。数秒前の記憶を辿る。狂った鳴き声を聞いた気がした。彼が押し倒した棚は〈貴婦人〉の方に直撃したらしい。〈紳士〉はそこに突っ込んだか。あまり効果のある話ではないが、ひと時の混乱で彼の姿を見失ったとみえる。
ステイカーは物音をいっさい立てず、影のように移動して次の地点に身を隠した。もうばたばたと動き回るのはやめだ。相手に位置を知られる。
化け物の姿は見えないが、少し遠くの方で、ばきばきと金属を叩き折っている音がした。耳障りなうめき声を聞きながら、怪力め、と彼は胸中で罵っていた。もう一体の気配は〈紳士〉の方だろう。騒がしく徘徊している様子がうかがえた。
何度も移動と隠れることを繰り返し、ステイカーは安全な場所で少し呼吸を整えた。ちょうどチーズ売り場に彼はいた。チーズという名前がついているものならなんでも、世界中からあらゆる種類を集めたのかというくらい、大量の商品が並んでいる。それで、自分が店舗のどのあたりにいるかを思い出した。
もっと冷静にならなければならない。そうしなくてはと思うのだが、気がかりなことが山ほどあるので、思考がそちらに引っ張られてしまいそうになる。予定通りであるなら、もうエリファとマックスは店舗の敷地を出て行く頃合いだ――しかし彼には確信が持てないでいる。何もかもをここに置き去りにして、エリファの安否を確認したい衝動がわいてくる。
順序を間違えてはいけない。ステイカーはさきほどの思いを振りほどいて、思考の焦点を現在に集中させた。外のことは一旦閉め出せ――冷静さを保てなくなった時点ですぐに狩られる。彼が息絶えれば、外の人間も助からない。助ける者がいなくなる。考えろ、考えろ、考えろ……
リンディはこの世から消えた。ヤバいのが二体いて、とてつもなくすばしっこく、しかも彼に対してそれなりに関心がある。現在遭遇している化け物の独自の生態はわからないが、運よく外に出られたとしても、経験上、追跡してくる可能性が高い。犬みたいに追ってくるのだ。 幸か不幸かマックスを探すために動きまわっために、すぐには彼の痕跡を見つけることはできないはずだが、それも時間の問題だった。
ステイカーが息を潜めている間も、二体の化け物はそれぞれのやり方で人間狩りに没頭している。ばらばらに動き回っている気配がしたのだ。一方は最初に遭遇したようにがむしゃらに走り回っているので位置の特定は容易だったが、もう一方は聞き取りづらい。ずる賢く追い詰めるような探し方だった。タイプが異なるらしい。注意すべきは〈貴婦人〉の方だ。
わずかな時間、相手を観察することができたせいか、心に多少の余裕が生まれてきた。それと同時に頭の中の考えもまとまった。
彼が潜伏しているのは夢のスーパーマーケット・ランドだ。こういった店の構造に混乱するほどの大きな違いはない。
一か八か、試す価値がある。
ステイカーは周囲の様子を探り、静かに移動を再開した。
彼は暗い通路を素早く通る。目的の物を得るために店の奥に向かっている。化け物の徘徊する気配が近づき、その度に足を止めて商品の背後で息を潜める。人ならざる大きな影がスーパーマーケットの棚と棚の間を移っていく。真正面で遭遇した場合に備え、ライフルをがっちりと構えて待ち受けていたが、〈貴婦人〉はパン売り場の方へ向かって行った。ステイカーは膨れ上がっていた緊張をわずかに緩めて銃を下ろし、行動を続けた。
それからはどちらが追いかける側で、あるいは追いかけられている側なのかわからなくなっている。化け物たちは狩る相手を探してうろついているが、時々はステイカーの方がそいつらの後をつけることがあった。その先に必要なものがあったからだ。姿を見られそうになる度に間一髪で姿を隠したり、不自然でない程度に商品を明後日の方向に転がして相手の気をそらした。向こうからすれば、暗闇の中で見つからない鼠を探しているようなものだろう。そうこうしている間に、道具が整い、目当ての場所までたどり着くことができた。
暗闇にさっと視線を走らせる。非常灯の光が薄ぼんやりとその売り場を照らしていた。内部が上々の作りであることを見て取るやステイカーはカウンターを乗り越えた。利用できるものは全て利用しろ――それを実行する時だ。
下ごしらえに多くの時間はかからなかった。構造は至極単純だからだ。糸とタイマーと金属、それに絶縁体となるプラスチックがあればよかった。そして最も重要なものはキッチンにある。必要なものを手にした彼は、隠れるように床に座り込み、銀の調理台の戸棚に背中を預け、ナイフでそれを丁寧に削り取った。剥き出しになった銅線を適切な間隔かつ限りなく平行に保ち、それ以上どこにも触れることがないよう、調理台の上に固定する。それからプラスチックの小物で細工をした後、探し出したガスの元栓を完全に開いた。アナログ式のタイマーを腕時計の時刻に合わせて五分に設定した。それで充分だろう……。無用な振動で細工を揺らさないよう、キッチンタイマーを用心深く置いたステイカーは、一分間たっぷりとかけて動作が順調であることを確認した後、腐った臭いが立ち込め始めている厨房から静かに離れた。
墓場のように静かだった一角が、突然賑やかになった。デリ店舗である〈BBQ heaven〉のカラフルなネオンサインが闇夜に光り輝いていた。それにあのけたたましく間抜けなメロディ――罠だとしても、気にならないやつなどいない。
最初に反応したのは、やはり〈紳士〉の方だった。化け物はその明かりの下に喜んでやってきた。現在、デリ店舗は清潔とはいいがたい状態だ。トマト缶やその他の臭いのきつい魚の缶詰の中身がばらまかれ、スプラッター映画のようにカウンターから滴り落ちている。店の前では、子供ほどの背丈のある二頭身の〈サブ坊や〉が、細長いパンに具材を挟んだサンドイッチを掲げて、単純な動作で楽しそうに踊っている。どうでもいいが、その販促用の機械人形は、カウボーイハットをかぶり、背中に天使の羽をつけているのが特徴だった。軽快でやかましいメロディはその人形のスピーカーから最大音量で鳴っていた。
時間は三分を切った。
〈紳士〉はおかしな販促人形を首を傾げて見ている。その先に獲物があるのか、いないのか、判断をつけようとしているのか――すると、〈紳士〉は体を揺らして奇妙な唸り声を上げる。笑っているのだ。
もしステイカーがその光景を間近で目にしていたら顔を引きつらせているところだ。いまや彼は現場から最大限の距離を取ろうと必死になっていた。物音を立てず、しかも物陰に隠れながらエントランスまで出ていくのは至難の業だ。そのためどこかでステイカーの存在を捉えられたのだろう。
あと一分。
ドレッシングが並ぶ通路に急いで入った時、前方でものすごい音がした。あの〈貴婦人〉が陳列棚を倒して隣から雪崩れこんできたのだ。進路を塞いだ化け物はばらばらに落ちているボトルの上で這いつくばり、狩りの咆哮を上げた。
灼熱の血流が彼の全身を駆け巡る――ステイカーは足元を蹴り砕く勢いで前に飛び込んだ。まだ立っている方の棚を足掛かりにして、最上段を掴み、大きく跳躍した。こちらが驚き、背中を見せるか、動きを止めると思っていたのだろう。突っ込んでくるという予想外の動作に防御と攻撃のどちらを選ぶべきか一瞬迷った〈貴婦人〉はわずかに反応を遅らせた。サーベルの鋭利な軌跡は飛び越えていく彼の靴底をかすめ、次の瞬間には彼は隣の通路で受け身を取っている。流れるような動作で態勢を整えて全力で逃走した。
〈貴婦人〉はステイカーを追い続けている。
既定の時間はもう間もなくだった。残り二十秒。出口はすぐそこだった。自動ドアのシルエットがもう視界に入っている。〈貴婦人〉のけたたましい金切り声と空を切る音が背後に迫る。十秒――畜生、間に合わないか!
ステイカーは瞬時にスーパーマーケットの床に身を伏せて防御態勢を取った。身を丸めているとき、なにもかもがスローモーションに見えた。彼の目に映ったのは、〈貴婦人〉が赤眼を憎悪で燃え上がらせて、鋭い牙をむき出しに、サーベルで襲いかかろうとする姿だった。
そして、世界が一変した。
衝撃がステイカーの全身を強打し、身体はスーパーマーケットの外までぶっ飛んでいた。間違いなく、彼は数秒気を失った。次に意識が戻った時には、瓦礫の間で息も絶え絶えにもがき、転がっているところだった。アスファルトの路面にはあらゆる破片が落ちている。爆発の残響か、耳鳴りか、ごうごうと闇夜が震えていた。爆発の威力は文句のつけようもない。木っ端みじんである。彼の仕掛けた時限性の装置が、”かちっ”と短絡を起こし、ガスに引火した結果だ。家電製品で頻発する事故の類である。ガスが充満する前に安全装置が働かないよう、周辺の警報機は潰しておいた。それで、ああなった。
と、ぽっかりと空いた暗闇から、影がよろよろと出てきた。
やるべきことをやれ! 朦朧とする意識を叩き、ステイカーは足に力を込めて身を起こした。腕に小さなガラスの破片が刺さり、血が滴っているが、無視をした。
出てきたのは〈貴婦人〉の方だった。両手のサーベルを突き立て、弱弱しい格好で這い出てきた。割れた自動ドアに半分倒れるようにして姿を現す。それもそのはずだ。下半身はずたぼろになっていた。背中には無数の残骸が刺さっている。爆発の衝撃をまともに食らったのだろう。逆に言えば、〈貴婦人〉がステイカーの代わりにそれを受け止めたため、彼はその化け物の元へ行ける程度には軽傷ですんだ。相手が壁になっていなければ彼が同じ目に遭っていたかもしれない。
〈貴婦人〉の軋んだ鳴き声が苦しみを訴えているようだった。ステイカーはそばで半折れになっている金属片をもぎとる。瓦礫だらけなので元がなんなのかはわからないが、刺突できる物ならなんでもよかった。そうして彼はためらうことなく、ひと息で〈貴婦人〉の心臓に金属を突き刺し、その短い断末魔を聞いた。
GT―Rの車内は狂乱の最中にあった。四つ目の化け物が憤怒の叫びを上げ、車の下から後部座席を突き破って侵入してきていた。背後から追突されたかのように座席が、どんと何度も殴られる。シートとハンドルの間で化け物に押し潰されるのではないかと彼女は思った。エリファは――悲鳴を上げた記憶もないが、きっと喚いていたに違いない――、咄嗟にシートスライドレバーを引き上げ、ダッシュボードをしゃにむに蹴り上げていた。勢いよく後退した運転席は、化け物を後部で抑え込みにかかる。彼女は力の続く限り、必死に抵抗した。その時、どこかで足がクラクションに引っかかったせいで、ホーンが長々と鳴り響いていた。
後部座席での化け物の暴れようも凄まじかった。GT―Rの車体が、がたがたと大きく左右に揺れるほどだった。シートの間から得体の知れない、凶暴な顔のようなものがエリファたちを噛みつこうと躍起になっている。
シェパードが助手席から化け物にとびかかった。顔に噛みついたのだ。肉がちぎれる音がして、鮮血が窓に飛び散った。
「この野郎――」マックスは怒りの声を上げ、シェパードが噛んだものとは別の――二つ首だった――化け物の捩れた首をひっつかんだ。逆上状態でそれを殴り、引っ掻き、巻き上げ始めた。そのままねじ切るのではないかという勢いだった。
赤い四つ目の化け物は、狂った笑い声を上げた。真っ黒な体躯が起き、GT―Rの天井をばりばりと破る。頭上からとどめを刺そうとしていた。彼らが見た空は、全き闇色をしていた。
その時、闇が揺れた。衝撃波が彼らの元に届いてGT―Rが震えたのだ。エリファもマックスも、空気の圧縮を全身で感じ、次の瞬間には重たい爆発音が鼓膜を叩いた。その異変で状況が一変したように感じた。
かすかに銃声が聞こえた。二発、三発とたたみかける。エリファ達に覆いかぶさろうとしていた化け物のシルエットは、まるで不可視の暴力によって圧倒され、GT―Rの破れた屋根に這いつくばった。今にも転げ落ちそうになっている。
「降りろ!」
言われるまでもなかった。エリファは運転席から飛び出した。マックスも同じだった。二人はほうほうの体で脱出した車から可能なかぎり距離を取った。エリファは目を見張る。ステイカーが――彼女の兄が――、猟銃で最後の一撃を見舞うと、金属の杭を片手に化け物に襲いかかる。怒りの叫び声を聞いた。相手の方も簡単にやられるわけにはいかない。化け物は車から這い降り、血塗れになった四つ目をぎらつかせ、鋭い鉤爪を繰り出す――が、勢いはそがれていた。ステイカーは簡単にそれをかわし、金属の杭を下から振り上げて化け物の頭部を殴りつけた。骨の砕ける嫌な音がした。それが決め手だったのだろう、彼はずるりと力抜けた化け物を純粋で単純な暴力で屈服させた。潰れた肉がアスファルトにはじけ飛び、骨という骨が粉砕される。ステイカーは機械じみた動作でそれを繰り返した。細かく痙攣していた化け物の反応が鈍くなったところで、その体躯が動かないよう足で踏み、即席の杭を相手の心臓に突き立てた。
ギィ――――!
化け物は絶叫を上げたあと、ばったりと力をなくした。エリファはただ呆然としていた。彼女を守るために一歩前に出ていたマックスも、その場に突っ立っていた。何が起こっているのか、まるでわからなかった。
スーパーマーケットは爆破されて見るも無残な光景になっている。
仕事を終えたステイカーは、顔についた血を服の袖で拭った。息を整えてから振り返り、つかつかと二人に近寄ってくる。いつの間にかシェパードがその足元にぴったりと付き添っていた。二人とも血で汚れていた。
「ここを離れる。ただちに、だ」
ステイカーは淡々と、それでいて有無を言わせない口調で言った。エリファが指示に従わなかったことを彼は責めなかったが、言外に厳しさを感じた。
「どこに行くの?」とエリファ。ステイカーはやや強引に彼女の肘を掴み、先を歩かせている。その時、兄の腕が傷だらけであることに気付いた。それすらも口出しできない雰囲気だったが。
「どこでもいい。安全な場所だ。おい、お前――」
マックスは痙攣したように体を震わせた。ステイカーは相手に視線をやり、「もう街に戻って同じ生活ができると思うな。全部捨てちまえ。生き残りたいのなら」
「リンディはどうなったんだよ!」マックスの叫びが夜の駐車場に響いた。
ステイカーは答えなかった。沈黙が答えだった。間を置いた後、彼は言う。「……何も従えとは言わない。誰かが来るまでこの場にとどまってもいい――俺ならそうしないが。すぐにやつらが追いかけてくる。血が流れるぞ。それがあいつらのものだけなら喜ばしいね。ギャングよりもたちが悪い連中だ。必ず始末をつけにくる」
「どうしろっていうんだ?」マックスは目尻から涙をこぼしていた。「あの地獄の悪魔どもが追ってくるから、この壊れたスーパーマーケットに全部捨てろっていうの? 友達も、人生を賭けて築いたものも、何もかもを?」
「マックス」ステイカーはゆっくりと、諭すように言った。「あんたは生涯で関わってはいけない存在に触れたんだ。目をつけられた。招き入れた。理由は、ただ、それだけだ」
「なんなんだよぉ、なんなんだよぉ、あれは……」マックスはその場でうずくまり、耳を塞いで体を揺らし始めた。「なんでこんなことになるんだよぉ……」
「……」ステイカーは黙って見ているしかなかった。エリファがそっとしがみついてくる。冷たい夜風が通り抜けていく。
「リンディに会いたい」マックスは声を搾り出した。「家に帰りたい」
「諦めろ」
マックスは悲しげな嗚咽をあげはじめた。一晩で何もかもが変わってしまうことにショックを受け、耐えきれなくなったのだろう。気の毒に思ったエリファがそばに寄ろうとしたが、ステイカーがそれを押し留めた。どのみち子供の出る幕ではなかった。マックスは泣きながら言う。
「どこにも行くあてがないよぉ……。とても甥の家族のところには行けない……」
「俺たちと来ればいい。長くは一緒にいてやれないが、しばらく匿ってやれる。その後は――好きにしろ」
マックスは肩を震わせながら言った。「……なんで、助けて、くれる?」
「妹を助けてくれただろ?」
顎で相手の服を示した。マックスの白いパーカーにはどす黒い血が染みこんでいた。出血量のわりにぴんぴんしているところを見るに、彼の血ではないはずだ。どこかで化け物と格闘でもしたに違いないとステイカーは見当をつけていた。「そうしようと思えばできたのに、一人で逃げたりしなかった。充分すぎる理由だ」
「マックスはブレイクも助けてくれたんだよ」と、エリファが口を挟んだ。
「そうか」と、彼は隣のシェパードの頭の毛を混ぜた。「まあまあ派手にやったみたいだ。俺ほどじゃないにせよ」
ちらとGT―Rに目をやる。彼の唯一の財産だったが、現在のとろこ引き裂かれてぺしゃんこになったと言って差し支えない。その時、偶然にも前輪のホイールカバーが外れてカラカラと地に落っこちていた。
「お兄ちゃん、ごめん。これどうしよっか……」と、エリファ。
「大丈夫だ。車の引き取り手ならいる。連絡すれば一番に駆けつけてくれるよ」
ここを離れる前にやることがあった。身元が割れるようなものは消し去りたい。ステイカーは駐車場の端を指し、「先に行け。すぐに追いつく」
エリファとマックスが恐々と頷き、歩き出すのを見てから、ステイカーは車両に向かった。例の化け物はドアに寄り掛かった態勢で、墓標のように杭を胸に突き立てたままだ。ただの肉の塊に成り果てている。”灰”になるまで、もってあと数十分だろう。ドアに手をかけようとした時だった。
サイドミラーが、暗闇の揺らぎを映し出した。
驚愕の思いで顔を向ける――本能がステイカーの全身に危機を発した。だが、彼は無抵抗だった。何もかもが一瞬の出来事で、世界の音が意識のはるか遠くに逃げていき、それでいてエリファの泣き叫ぶ声だけは耳に残った。
上体に三度の衝撃が貫く。正確無比な致命の攻撃だった。
ステイカーは真正面から三発の銃弾を受けて、アスファルトに倒れた。
「ブレイク!」
エリファの大声が荒れた夜の駐車場に響き渡る。シェパードは全速力でアスファルトを蹴り、ぐんぐんとエリファたちから離れていく。その背後には、蠢く衣をばたつかせた四つ目の化けものがその背後を追っていた。
怪物が金切り声で犬の背中に飛びかかった。その鋭いかぎ爪は、突然シェパードが急旋回したため、あわや毛先をかすめるだけに終わったが、その代わりにアスファルトを引っ掻いて火花を散らせた。
ブレイクの身のこなしはレーシングさながらの俊敏さだった。放置された車両の間を右に左にと走り抜け、自身を追う怪物を翻弄する――だが、憎悪にたぎる四つ目はシェパードを逃しはしなかった。異様な速度で犬の背後に追いつき、その馬鹿力で影に隠れた車ごと引き裂こうとする。ワインレッドのクライスラー車の後方が派手な音を立てて押し潰された。
エリファは口を両手で覆って悲鳴を上げた。飼い犬が車に巻き込まれ無残に殺されたのだと思ったのだ。しかし悲鳴はすぐに飲み込まれる。潰れた車体の隙間から這い出るものがあった。ブレイクはもがいてその場から逃げおおせたようだったが、その後はまた車の影になってしまい、犬の姿を見失った。
怪物が別のSUV車に文字通り飛びついて、半開きのドアをめきめきと千切り、狂ったように車を揺さぶる。ブレイクは生き延びているが、追い詰められていた。車の中に隠れて八方塞がりになっている。怪物は軋んだような雄叫びを上げ、長い腕でシート一席を怪力で剥ぎ取り、駐車場に投げ捨てた。シェパードが獰猛に吠えたてる。暗い車内で、殺すか殺されるかの格闘が始まった。獣の荒い息遣いと激しく動く影が、犬の必死の抵抗を物語っていた。
四つ目の怪物は自身の体が大きすぎて中へ侵入するのが不可能だとわかると、憎しみの目をぎらつかせ、しゅーと冷気を口から吐きだした。纏っている蠢く衣が裾の方から真っ二つに裂けていく――次の瞬間には布がぐるっと捩れて奇怪な形状に変化した。捩れの先端に化け物と瓜二つの顔が生えている。それが牙を剥き、狭い車内へと突進した。
ギャン、とシェパードが叫んだ。
「何やってんの!」呆然としていたマックスが、別の恐怖を見つけて慄いた。エリファがよろめきながら半壊したGT―Rに向かって走っている。彼は慌てて追いかけてエリファの腕を掴むが、力いっぱいマックスを振り解こうとした。その間も犬はギャンギャンとなき喚いている。
「耐えられない」振り向いたエリファの顔は青ざめていたし、ほとんど泣いていたが、恐怖に打ちのめされるほどのやわな目つきをしていなかった。
彼女はあの勇敢な犬の元へ行こうとしているのだとマックスは気づいた。飼い犬の危機を放っておけないのだ。気持ちはわかるが、それにしても、限度というものがある。狼狽えるマックスを置き去りにして、エリファはGT―Rの扉を開ける。
「馬鹿げてるよ、このオンボロはもう壊れてる!」
ぐぉんとエンジンが唸りを上げた。
マックスは扉を閉めさせまいと間に入ってフレームにしがみつく。
「頼むよ。このまま逃げるって言って。あんたの兄貴が一緒に逃げろって、そう言ってたんだ。あんたの兄貴が正しいよ。だってあんなの、どうにもならないよ。リンディだって――」その時、彼は店で起こったことを思い出した。暗闇ではぐれたリンディを探し混乱している時。棚に挟まれた長い通路の奥で、突然現れた黒い影。何故、ステイカーに詰問された時に上手く言えなかったのだろう? 記憶がばらばらに砕けていた。まるで自分が分裂したみたいに……マックスは首を振って言い直した。「リンディだって、どうなったかわからないんだ。飼い犬のためにそんな恐ろしいことをしないでよ。兄貴の言うことを聞くべきだよ」
エリファのパニック症状はまだ治っておらず、呼吸は乱れたままだったが、彼女はステアリングを固く握りしめて前方だけを見据えている。エリファは鼻を無造作に拭って言った。「お兄ちゃんは当てにならない」すぐに泣きそうな顔をした。「ごめん、本当はこんなはずじゃなかった。でも私が車を走らせれば化けものはあなたに気がつかない」
「頑固者だね! そうじゃないんだ、あんたは巻き込まれただけなんだって!」だんだんと腹立たしくなってきた。状況が全く理解できないのに、自分に責任の一端がある。「ああわかったよ。こんな時に一人で逃げるなんてできるわけないでしょうが? ほら、鍵を開けるんだ!」まくしたてながらマックスは助手席を開けて素早く乗り込んだ。「犬を引き受けることしかできないよ。チャンスは一度だけ」
エリファは頷いて、できる限り静かに車を移動させた。見た目ほど状態は悪くないらしく、車両はスムーズに動いている。ある程度のところでエリファはハンドブレーキを引いた。
「位置についた。つかまっていて」
眠っていた獣が首を起こすように、エンジンの回転数が上昇した。
マックスが唾を飲み込んだ次の瞬間、クラッチが高速のトルクにかみついた。重力加速度によって体がシートに引っ張られる。ジャックラビットスタートで飛び出したGT―Rはさらに加速し、駐車場を凄まじい勢いで疾走した。
マックスは大声で喚いた。正気の沙汰ではないと思った。彼らの車両は犬を咀嚼しようとしている怪物に真正面から衝突し、跳ね飛ばした。全身がシェイカーにぶち込まれたように揺さぶられる。GT―Rは犬がいたSUV車を巻き込みながら大きくスピンし――奇跡でも起こったに違いない――なんとか横転もせず停止した。マックスはエアバッグを払いのけ、咳き込んでいるエリファの肩を掴む。「怪我は?」エリファは乱れた髪を振った。「早く――もう行こう」
扉を蹴って開けたとき、自分たちが生きていることが不思議でならなかった。前方はややひしゃげ、正面ガラスはひび割れ、ペンキをかぶったように血が飛び散っている。相手がなんであれ、もはや無事ではないだろう。車が動くかどうかも心配だったがエンジンはまだ生きている。
マックスが向こう側の車内に呼びかけた。
「おいで、ワンちゃん。来るんだよ。そうだ、車に乗って」
犬はSUVの座席の床に隠れていた。三列タイプだったのが幸いしてあの鉤爪から逃れたのかもしれない。ブレイクは後部から頭を出して、マックスをじっと見ている。昼間はあんなにきれいな毛並みだったのに、今は毛がぼさぼさで耳の根元に血がついている。だが命に別状は無さそうだ。
「ブレイク、ここに来て!」エリファも加勢して助手席の座面を叩く。
興奮した大型犬に近づいてもよいものかマックスは悩んだ。と――シェパードはゆっくり身体を起こし、車から出てくる。軽い身のこなしで駐車場に降りてきた。
「あんたはなんて勇敢な犬なんだ。さあ乗って」ブレイクを助手席に促し、自分も身体を押し込んだ。大型犬を膝に抱えてかなり窮屈になったが、犬の方は気にも留めず、尻尾を振ってエリファの顔をべろべろ舐めている。「悪いけど後にして……」犬の顔を押えて、エリファはGT―Rを操作した。エンジンが空回りしている。それがもう一度続く。
マックスが彼女に顔を向けるとエリファも彼を見ていた。彼女が何か言おうと口を開いた時、車体が大きく傾ぐ。ブレイクが警告的に激しく吠えたてた。次の瞬間、突き上げるような衝撃に襲われた。二人は車体に正面からぶつかり、悲鳴を上げることさえできなかった。後部座席の床からばりばりと食い破られ、何かが侵入してくる。耳障りな金切声が車内に響き渡った。一回り小さい四つ目の怪物が牙をむき出しにしている。それが二頭、床を割り、よじれるようにしながら生えている。あの蠢く衣だったものだ――怪物は車体の下にもぐりこんでいる。
✣
ぎゅっと靴底が冷たいフロアを踏みしめる。ステイカーが無意識に後じさりした音だった。
目の前には血塗れの〈貴婦人〉がいる。さらにその奥では、ひっくり返っていた〈紳士〉がはね起きるのが見えた。
俺に構うんじゃない、と彼は心からそう言いたかった。T3xライフルを握りしめ、一歩ずつ後退する。
もはやリンディの影も形もないその〈貴婦人〉は、ばきばきと骨格を変形させて長くなった腕を片方ずつ掲げた。サーベルのような鉤爪が暗闇に光っている。大蜘蛛が獲物ににじり寄る姿を連想させた。
ステイカーが踵を返すのと、〈貴婦人〉が両腕のサーベルを突き出して飛びかかってくるのは同時だった。凶悪な風が顔の横を通り抜け、あと少しで彼の頭を引き裂くところだった。勢いに翻弄されたステイカーは食料品棚に叩きつけられる。ライフルは手放さなかったが、もはや銃一挺でどうにかなる状況ではなかった。
〈貴婦人〉は着地するとサーベルで床を削りながら身を翻し、ステイカーと真正面から対峙した。それとすれ違う時に見たくないものも目にした。後頭部にリンディのような顔の肉の盛り上がりがあった。閉じたまぶたの厚み、鼻の高さ、少し開いた口元。まるで眠っているようだった。
相手と向き合いになりながら、ステイカーの呼吸が荒々しくなる。あんなサーベル、まともに当たれば腕など簡単に切り落とされる。
通路の背中側には、地獄の住人そのものの〈紳士〉だ。脈打つ血管が体から飛び出し、それが無秩序にあちこちで蠢いている。胸元ではステイカーが刺したステンレス棒から血を滴らせ、肩にあるもう一つの首は千切れかけながらなんとかぶら下がっている。頭のシルクハットだけは文明の名残りがあるが、その下は血の髭と乱杭歯の醜い顔だ。ステッキでとんとフロアを叩いた〈紳士〉は、嫌味なほど気取った動作で取っ手に自分の手を置いた。
暗闇で一閃が光った。無意識の反射だった――刃物を避けようとして彼は身を屈め、食品棚に体当たりしていた。どちらが先に襲ってきたかはわからない。同時だったかもしれない。だが、そのおかげで、彼は切断された棚ごと隣の通路に飛び込むことになった。騒乱状態で金属が衝突している。ステイカーは床にぶっ倒れ、這ったまま前に進んだ。くそくそくそ! ちょうど陳列していたマシュマロが袋から破れ出し、ぽんぽんと周囲を跳ね回っている。彼の頭上では鞭のようにしなる何かが金属棚の三分の一をぱっくりと切り裂いている。
殺される――こんなところでか!
多種多様の菓子が頭上になだれ込んできたためステイカーは身を守った後、すぐさま棚に体当たりした。破壊的な轟音とともに向こう側へ倒れていく。怪物たちの反応を確認する心の余裕はなかった。彼は死に物狂いで通路を走り、陳列棚を曲がり、とにかく走りまくった後、床を滑り込んで物陰へ隠れた。心臓が胸骨の下で暴れ、呼吸は酸素を求め乱れていた。パニックに呑まれかけている――駄目だ、今じゃない、落ち着け! ステイカーは必死で自分を叱咤した。まだ生きてる。同じ場所に留まるな。移動し続けろ。考えるのは後だ――
山積みにしてあるチョコレートバーの箱の端から慎重に顔を出して、すぐに反対側へ静かに動いた。数秒前の記憶を辿る。狂った鳴き声を聞いた気がした。彼が押し倒した棚は〈貴婦人〉の方に直撃したらしい。〈紳士〉はそこに突っ込んだか。あまり効果のある話ではないが、ひと時の混乱で彼の姿を見失ったとみえる。
ステイカーは物音をいっさい立てず、影のように移動して次の地点に身を隠した。もうばたばたと動き回るのはやめだ。相手に位置を知られる。
化け物の姿は見えないが、少し遠くの方で、ばきばきと金属を叩き折っている音がした。耳障りなうめき声を聞きながら、怪力め、と彼は胸中で罵っていた。もう一体の気配は〈紳士〉の方だろう。騒がしく徘徊している様子がうかがえた。
何度も移動と隠れることを繰り返し、ステイカーは安全な場所で少し呼吸を整えた。ちょうどチーズ売り場に彼はいた。チーズという名前がついているものならなんでも、世界中からあらゆる種類を集めたのかというくらい、大量の商品が並んでいる。それで、自分が店舗のどのあたりにいるかを思い出した。
もっと冷静にならなければならない。そうしなくてはと思うのだが、気がかりなことが山ほどあるので、思考がそちらに引っ張られてしまいそうになる。予定通りであるなら、もうエリファとマックスは店舗の敷地を出て行く頃合いだ――しかし彼には確信が持てないでいる。何もかもをここに置き去りにして、エリファの安否を確認したい衝動がわいてくる。
順序を間違えてはいけない。ステイカーはさきほどの思いを振りほどいて、思考の焦点を現在に集中させた。外のことは一旦閉め出せ――冷静さを保てなくなった時点ですぐに狩られる。彼が息絶えれば、外の人間も助からない。助ける者がいなくなる。考えろ、考えろ、考えろ……
リンディはこの世から消えた。ヤバいのが二体いて、とてつもなくすばしっこく、しかも彼に対してそれなりに関心がある。現在遭遇している化け物の独自の生態はわからないが、運よく外に出られたとしても、経験上、追跡してくる可能性が高い。犬みたいに追ってくるのだ。 幸か不幸かマックスを探すために動きまわっために、すぐには彼の痕跡を見つけることはできないはずだが、それも時間の問題だった。
ステイカーが息を潜めている間も、二体の化け物はそれぞれのやり方で人間狩りに没頭している。ばらばらに動き回っている気配がしたのだ。一方は最初に遭遇したようにがむしゃらに走り回っているので位置の特定は容易だったが、もう一方は聞き取りづらい。ずる賢く追い詰めるような探し方だった。タイプが異なるらしい。注意すべきは〈貴婦人〉の方だ。
わずかな時間、相手を観察することができたせいか、心に多少の余裕が生まれてきた。それと同時に頭の中の考えもまとまった。
彼が潜伏しているのは夢のスーパーマーケット・ランドだ。こういった店の構造に混乱するほどの大きな違いはない。
一か八か、試す価値がある。
ステイカーは周囲の様子を探り、静かに移動を再開した。
彼は暗い通路を素早く通る。目的の物を得るために店の奥に向かっている。化け物の徘徊する気配が近づき、その度に足を止めて商品の背後で息を潜める。人ならざる大きな影がスーパーマーケットの棚と棚の間を移っていく。真正面で遭遇した場合に備え、ライフルをがっちりと構えて待ち受けていたが、〈貴婦人〉はパン売り場の方へ向かって行った。ステイカーは膨れ上がっていた緊張をわずかに緩めて銃を下ろし、行動を続けた。
それからはどちらが追いかける側で、あるいは追いかけられている側なのかわからなくなっている。化け物たちは狩る相手を探してうろついているが、時々はステイカーの方がそいつらの後をつけることがあった。その先に必要なものがあったからだ。姿を見られそうになる度に間一髪で姿を隠したり、不自然でない程度に商品を明後日の方向に転がして相手の気をそらした。向こうからすれば、暗闇の中で見つからない鼠を探しているようなものだろう。そうこうしている間に、道具が整い、目当ての場所までたどり着くことができた。
暗闇にさっと視線を走らせる。非常灯の光が薄ぼんやりとその売り場を照らしていた。内部が上々の作りであることを見て取るやステイカーはカウンターを乗り越えた。利用できるものは全て利用しろ――それを実行する時だ。
下ごしらえに多くの時間はかからなかった。構造は至極単純だからだ。糸とタイマーと金属、それに絶縁体となるプラスチックがあればよかった。そして最も重要なものはキッチンにある。必要なものを手にした彼は、隠れるように床に座り込み、銀の調理台の戸棚に背中を預け、ナイフでそれを丁寧に削り取った。剥き出しになった銅線を適切な間隔かつ限りなく平行に保ち、それ以上どこにも触れることがないよう、調理台の上に固定する。それからプラスチックの小物で細工をした後、探し出したガスの元栓を完全に開いた。アナログ式のタイマーを腕時計の時刻に合わせて五分に設定した。それで充分だろう……。無用な振動で細工を揺らさないよう、キッチンタイマーを用心深く置いたステイカーは、一分間たっぷりとかけて動作が順調であることを確認した後、腐った臭いが立ち込め始めている厨房から静かに離れた。
墓場のように静かだった一角が、突然賑やかになった。デリ店舗である〈BBQ heaven〉のカラフルなネオンサインが闇夜に光り輝いていた。それにあのけたたましく間抜けなメロディ――罠だとしても、気にならないやつなどいない。
最初に反応したのは、やはり〈紳士〉の方だった。化け物はその明かりの下に喜んでやってきた。現在、デリ店舗は清潔とはいいがたい状態だ。トマト缶やその他の臭いのきつい魚の缶詰の中身がばらまかれ、スプラッター映画のようにカウンターから滴り落ちている。店の前では、子供ほどの背丈のある二頭身の〈サブ坊や〉が、細長いパンに具材を挟んだサンドイッチを掲げて、単純な動作で楽しそうに踊っている。どうでもいいが、その販促用の機械人形は、カウボーイハットをかぶり、背中に天使の羽をつけているのが特徴だった。軽快でやかましいメロディはその人形のスピーカーから最大音量で鳴っていた。
時間は三分を切った。
〈紳士〉はおかしな販促人形を首を傾げて見ている。その先に獲物があるのか、いないのか、判断をつけようとしているのか――すると、〈紳士〉は体を揺らして奇妙な唸り声を上げる。笑っているのだ。
もしステイカーがその光景を間近で目にしていたら顔を引きつらせているところだ。いまや彼は現場から最大限の距離を取ろうと必死になっていた。物音を立てず、しかも物陰に隠れながらエントランスまで出ていくのは至難の業だ。そのためどこかでステイカーの存在を捉えられたのだろう。
あと一分。
ドレッシングが並ぶ通路に急いで入った時、前方でものすごい音がした。あの〈貴婦人〉が陳列棚を倒して隣から雪崩れこんできたのだ。進路を塞いだ化け物はばらばらに落ちているボトルの上で這いつくばり、狩りの咆哮を上げた。
灼熱の血流が彼の全身を駆け巡る――ステイカーは足元を蹴り砕く勢いで前に飛び込んだ。まだ立っている方の棚を足掛かりにして、最上段を掴み、大きく跳躍した。こちらが驚き、背中を見せるか、動きを止めると思っていたのだろう。突っ込んでくるという予想外の動作に防御と攻撃のどちらを選ぶべきか一瞬迷った〈貴婦人〉はわずかに反応を遅らせた。サーベルの鋭利な軌跡は飛び越えていく彼の靴底をかすめ、次の瞬間には彼は隣の通路で受け身を取っている。流れるような動作で態勢を整えて全力で逃走した。
〈貴婦人〉はステイカーを追い続けている。
既定の時間はもう間もなくだった。残り二十秒。出口はすぐそこだった。自動ドアのシルエットがもう視界に入っている。〈貴婦人〉のけたたましい金切り声と空を切る音が背後に迫る。十秒――畜生、間に合わないか!
ステイカーは瞬時にスーパーマーケットの床に身を伏せて防御態勢を取った。身を丸めているとき、なにもかもがスローモーションに見えた。彼の目に映ったのは、〈貴婦人〉が赤眼を憎悪で燃え上がらせて、鋭い牙をむき出しに、サーベルで襲いかかろうとする姿だった。
そして、世界が一変した。
衝撃がステイカーの全身を強打し、身体はスーパーマーケットの外までぶっ飛んでいた。間違いなく、彼は数秒気を失った。次に意識が戻った時には、瓦礫の間で息も絶え絶えにもがき、転がっているところだった。アスファルトの路面にはあらゆる破片が落ちている。爆発の残響か、耳鳴りか、ごうごうと闇夜が震えていた。爆発の威力は文句のつけようもない。木っ端みじんである。彼の仕掛けた時限性の装置が、”かちっ”と短絡を起こし、ガスに引火した結果だ。家電製品で頻発する事故の類である。ガスが充満する前に安全装置が働かないよう、周辺の警報機は潰しておいた。それで、ああなった。
と、ぽっかりと空いた暗闇から、影がよろよろと出てきた。
やるべきことをやれ! 朦朧とする意識を叩き、ステイカーは足に力を込めて身を起こした。腕に小さなガラスの破片が刺さり、血が滴っているが、無視をした。
出てきたのは〈貴婦人〉の方だった。両手のサーベルを突き立て、弱弱しい格好で這い出てきた。割れた自動ドアに半分倒れるようにして姿を現す。それもそのはずだ。下半身はずたぼろになっていた。背中には無数の残骸が刺さっている。爆発の衝撃をまともに食らったのだろう。逆に言えば、〈貴婦人〉がステイカーの代わりにそれを受け止めたため、彼はその化け物の元へ行ける程度には軽傷ですんだ。相手が壁になっていなければ彼が同じ目に遭っていたかもしれない。
〈貴婦人〉の軋んだ鳴き声が苦しみを訴えているようだった。ステイカーはそばで半折れになっている金属片をもぎとる。瓦礫だらけなので元がなんなのかはわからないが、刺突できる物ならなんでもよかった。そうして彼はためらうことなく、ひと息で〈貴婦人〉の心臓に金属を突き刺し、その短い断末魔を聞いた。
GT―Rの車内は狂乱の最中にあった。四つ目の化け物が憤怒の叫びを上げ、車の下から後部座席を突き破って侵入してきていた。背後から追突されたかのように座席が、どんと何度も殴られる。シートとハンドルの間で化け物に押し潰されるのではないかと彼女は思った。エリファは――悲鳴を上げた記憶もないが、きっと喚いていたに違いない――、咄嗟にシートスライドレバーを引き上げ、ダッシュボードをしゃにむに蹴り上げていた。勢いよく後退した運転席は、化け物を後部で抑え込みにかかる。彼女は力の続く限り、必死に抵抗した。その時、どこかで足がクラクションに引っかかったせいで、ホーンが長々と鳴り響いていた。
後部座席での化け物の暴れようも凄まじかった。GT―Rの車体が、がたがたと大きく左右に揺れるほどだった。シートの間から得体の知れない、凶暴な顔のようなものがエリファたちを噛みつこうと躍起になっている。
シェパードが助手席から化け物にとびかかった。顔に噛みついたのだ。肉がちぎれる音がして、鮮血が窓に飛び散った。
「この野郎――」マックスは怒りの声を上げ、シェパードが噛んだものとは別の――二つ首だった――化け物の捩れた首をひっつかんだ。逆上状態でそれを殴り、引っ掻き、巻き上げ始めた。そのままねじ切るのではないかという勢いだった。
赤い四つ目の化け物は、狂った笑い声を上げた。真っ黒な体躯が起き、GT―Rの天井をばりばりと破る。頭上からとどめを刺そうとしていた。彼らが見た空は、全き闇色をしていた。
その時、闇が揺れた。衝撃波が彼らの元に届いてGT―Rが震えたのだ。エリファもマックスも、空気の圧縮を全身で感じ、次の瞬間には重たい爆発音が鼓膜を叩いた。その異変で状況が一変したように感じた。
かすかに銃声が聞こえた。二発、三発とたたみかける。エリファ達に覆いかぶさろうとしていた化け物のシルエットは、まるで不可視の暴力によって圧倒され、GT―Rの破れた屋根に這いつくばった。今にも転げ落ちそうになっている。
「降りろ!」
言われるまでもなかった。エリファは運転席から飛び出した。マックスも同じだった。二人はほうほうの体で脱出した車から可能なかぎり距離を取った。エリファは目を見張る。ステイカーが――彼女の兄が――、猟銃で最後の一撃を見舞うと、金属の杭を片手に化け物に襲いかかる。怒りの叫び声を聞いた。相手の方も簡単にやられるわけにはいかない。化け物は車から這い降り、血塗れになった四つ目をぎらつかせ、鋭い鉤爪を繰り出す――が、勢いはそがれていた。ステイカーは簡単にそれをかわし、金属の杭を下から振り上げて化け物の頭部を殴りつけた。骨の砕ける嫌な音がした。それが決め手だったのだろう、彼はずるりと力抜けた化け物を純粋で単純な暴力で屈服させた。潰れた肉がアスファルトにはじけ飛び、骨という骨が粉砕される。ステイカーは機械じみた動作でそれを繰り返した。細かく痙攣していた化け物の反応が鈍くなったところで、その体躯が動かないよう足で踏み、即席の杭を相手の心臓に突き立てた。
ギィ――――!
化け物は絶叫を上げたあと、ばったりと力をなくした。エリファはただ呆然としていた。彼女を守るために一歩前に出ていたマックスも、その場に突っ立っていた。何が起こっているのか、まるでわからなかった。
スーパーマーケットは爆破されて見るも無残な光景になっている。
仕事を終えたステイカーは、顔についた血を服の袖で拭った。息を整えてから振り返り、つかつかと二人に近寄ってくる。いつの間にかシェパードがその足元にぴったりと付き添っていた。二人とも血で汚れていた。
「ここを離れる。ただちに、だ」
ステイカーは淡々と、それでいて有無を言わせない口調で言った。エリファが指示に従わなかったことを彼は責めなかったが、言外に厳しさを感じた。
「どこに行くの?」とエリファ。ステイカーはやや強引に彼女の肘を掴み、先を歩かせている。その時、兄の腕が傷だらけであることに気付いた。それすらも口出しできない雰囲気だったが。
「どこでもいい。安全な場所だ。おい、お前――」
マックスは痙攣したように体を震わせた。ステイカーは相手に視線をやり、「もう街に戻って同じ生活ができると思うな。全部捨てちまえ。生き残りたいのなら」
「リンディはどうなったんだよ!」マックスの叫びが夜の駐車場に響いた。
ステイカーは答えなかった。沈黙が答えだった。間を置いた後、彼は言う。「……何も従えとは言わない。誰かが来るまでこの場にとどまってもいい――俺ならそうしないが。すぐにやつらが追いかけてくる。血が流れるぞ。それがあいつらのものだけなら喜ばしいね。ギャングよりもたちが悪い連中だ。必ず始末をつけにくる」
「どうしろっていうんだ?」マックスは目尻から涙をこぼしていた。「あの地獄の悪魔どもが追ってくるから、この壊れたスーパーマーケットに全部捨てろっていうの? 友達も、人生を賭けて築いたものも、何もかもを?」
「マックス」ステイカーはゆっくりと、諭すように言った。「あんたは生涯で関わってはいけない存在に触れたんだ。目をつけられた。招き入れた。理由は、ただ、それだけだ」
「なんなんだよぉ、なんなんだよぉ、あれは……」マックスはその場でうずくまり、耳を塞いで体を揺らし始めた。「なんでこんなことになるんだよぉ……」
「……」ステイカーは黙って見ているしかなかった。エリファがそっとしがみついてくる。冷たい夜風が通り抜けていく。
「リンディに会いたい」マックスは声を搾り出した。「家に帰りたい」
「諦めろ」
マックスは悲しげな嗚咽をあげはじめた。一晩で何もかもが変わってしまうことにショックを受け、耐えきれなくなったのだろう。気の毒に思ったエリファがそばに寄ろうとしたが、ステイカーがそれを押し留めた。どのみち子供の出る幕ではなかった。マックスは泣きながら言う。
「どこにも行くあてがないよぉ……。とても甥の家族のところには行けない……」
「俺たちと来ればいい。長くは一緒にいてやれないが、しばらく匿ってやれる。その後は――好きにしろ」
マックスは肩を震わせながら言った。「……なんで、助けて、くれる?」
「妹を助けてくれただろ?」
顎で相手の服を示した。マックスの白いパーカーにはどす黒い血が染みこんでいた。出血量のわりにぴんぴんしているところを見るに、彼の血ではないはずだ。どこかで化け物と格闘でもしたに違いないとステイカーは見当をつけていた。「そうしようと思えばできたのに、一人で逃げたりしなかった。充分すぎる理由だ」
「マックスはブレイクも助けてくれたんだよ」と、エリファが口を挟んだ。
「そうか」と、彼は隣のシェパードの頭の毛を混ぜた。「まあまあ派手にやったみたいだ。俺ほどじゃないにせよ」
ちらとGT―Rに目をやる。彼の唯一の財産だったが、現在のとろこ引き裂かれてぺしゃんこになったと言って差し支えない。その時、偶然にも前輪のホイールカバーが外れてカラカラと地に落っこちていた。
「お兄ちゃん、ごめん。これどうしよっか……」と、エリファ。
「大丈夫だ。車の引き取り手ならいる。連絡すれば一番に駆けつけてくれるよ」
ここを離れる前にやることがあった。身元が割れるようなものは消し去りたい。ステイカーは駐車場の端を指し、「先に行け。すぐに追いつく」
エリファとマックスが恐々と頷き、歩き出すのを見てから、ステイカーは車両に向かった。例の化け物はドアに寄り掛かった態勢で、墓標のように杭を胸に突き立てたままだ。ただの肉の塊に成り果てている。”灰”になるまで、もってあと数十分だろう。ドアに手をかけようとした時だった。
サイドミラーが、暗闇の揺らぎを映し出した。
驚愕の思いで顔を向ける――本能がステイカーの全身に危機を発した。だが、彼は無抵抗だった。何もかもが一瞬の出来事で、世界の音が意識のはるか遠くに逃げていき、それでいてエリファの泣き叫ぶ声だけは耳に残った。
上体に三度の衝撃が貫く。正確無比な致命の攻撃だった。
ステイカーは真正面から三発の銃弾を受けて、アスファルトに倒れた。
【2025/08/23 掲載】