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 03
 
 
 (エコー)セッションの構成員、イ・ジュンスは自分たちに課せられた任務を思い返していた。それはすなわち、敵を殲滅し、東側四階にいる三名の餌食者を解放することだ。
 餌食者とは、ダンピールたちに攫われ、監禁され、適度に生かされつつ長期で血を抜かれる犠牲者をさす。最終的に体中の血を吸い尽くされ、死に至る。そういう死体は本国でも見たことがあった。当時は怪事件の扱いを受けていたが、まさか自分自身が渦中に飛び込むことになるとはその時は考えもしなかった。
 おぞましいことだと彼は思う――よりにもよって、同族(・・)を喰らうなんて。
 (エコー)が侵入した商業施設は作りかけも甚だしく、主通路から吹き抜けの上部をあおぐと、支柱でサンドされた二階の薄い床がうかがえた。壁などは見当たらない。工事が完成されれば、よくある吹き抜け階層のショッピングモールだったろうが、今はすかすかというわけだ。まるで子供の頃に工作した紙のお家みたいだ。全体的に白を基調としているので余計にそう見える。
 チームは二つに分かれて慎重に前進していた。(アルファ)セッションが起こした爆発にまぎれて乗り込んだので、こちらはいやに静かだった。工事用の照明が点々とついているが薄暗い。何に使うのか見当もつかないプラスチック板があちこちに落ちており、踏み抜いて大きな音を出さないよう気を配らなければならなかった。緊張で汗が吹き出て、ガスマスクの中がむずがゆく感じた。
 みんなDPに接近する恐怖よりも、任務に対して多大なプレッシャーを感じている。イ・ジュンスも同じだった。失敗は許されない。(アルファ)チームの期待を裏切るのは嫌だった。
 出発前、ステイカーはEのメンバーに声をかけた。普段はどうしようもない冗談を口にする人物だが、その時は落ち着いた目をしていた。――なあ、そう焦るなよ。あの二人がどう言おうが、お前たちが充分に訓練を積んできたことを俺は知ってる。慌てるからへまをするんだ。基本を思い出せ。『ゆっくりゆっくり、確実に』、だろ? 次の仕事はそれでいい。
 そうだ、確実に事を終わらせるんだ。ダンピールは自分たちに危機が迫る中、わざわざ餌食者に構わない。食料なら他の場所で探せばいいからだ。
 しかし、彼には気にかかることがあった。
 ――もし、のろく慎重にやって……彼ら(・・)が間に合わなかったら、どうするんです?
 ステイカーは数秒、沈黙をはさんだ。言葉を選んでいることはジュンスにはわかった。
 ――支援はつけた。何も心配はない。助けられるやつから助け出せ。それが俺たちにできることだ。
 イ・ジュンスはその意味を理解したくなかった。
 ステイカーは彼の肩を掴んで念を押し、言うだけ言うと、すぐに去っていった。
 ――最優先事項は単純だ。自分たちが死なずに、ダンピールを殺す。それだけだ。
 ……
「行き止まりだ。ここから上階はあがれない。主通路を抜けるしか……」
 イ・ジュンスはライトで前方を照らした。非常階段に続く扉は機材で塞がっていた。人間がやったというよりは、大男がそこらに積んであったものをなぎ倒したみたいだった。
〈どけてみるか?〉
「いや、時間がない。捕まってる人たちを助けないと」
後方を見ている別チームから通信が入る。
〈北に設置済みのエスカレーターがある。四階までひとつづきだ〉
「了解。すぐに戻る」
 全員で来た道を引き返し、合流地点を目指した。チームメイトの一人が言う。
〈そっちは見通しがいい……〉
 そういう場所は敵に見つかりやすく、襲われやすい。そのうえエスカレーターは狭くて逃げ場がない。あまり良いルートだとはいえない。
「落ち着いて」イ・ジュンスはマイクに囁いた。「銃で狙われるんじゃないんだ。僕たちには敵の位置が見える。橋は慎重に渡れば揺れが少ない。エコー4たちと交互に進もう」
〈……わかった〉
 ジュンスは最後尾のチームメイトに視線をやる。ステイカーに引っ張られて、カウンセリング室でストレステストを受けさせられた人物だ。結果は合格すれすれのところだった。行けなくもないが、この任務次第で最後の仕事になるかもしれない、というのが医師の判断らしい。それを知った仲間たちは彼を引き止めたが、相手の決意は固かった。
 ジュンスは一人でいる彼を捕まえて、話をしてみた。「俺をくわえていったダンピール……俺を見て”こわい”と言ったんだ。俺が? それとも、自分の身にふりかかったことが? どちらにせよ、その声が今も耳に残ってる……」そして彼は続けた。「でもここで行かなきゃ、俺は二度と戦えなくなると思う。あんたもわかるだろ? だから、俺を行かせてくれるよな、ご同輩?」
 チームと合流したEはモールの中を突き進んだ。どこかで爆発音がこだましていた。AかGのどちらかだ。かなり激しい戦闘のようだ。こちらもいつ接敵してもおかしくない。
 暗闇の中、エスカレーターが見えてきた。埃よけの白いカバーがだらしなく掛けられて、それが上階まで続いている。
 周囲の状況を確認したイ・ジュンスは、前に進めると判断して指示を出した。
「エコー4、先に進め。エコー1は後に続く」
〈了解。エコー4、前進する〉
 エコー4のチームは上階や左右に銃を差し向けながら、そろそろとした足取りでエスカレーターを上り始める。
 背後を守りながら、緊張の瞬間だと、ジュンスは思った。ダンピールたちはどこまで自分たちのことを見通しているんだろうという疑問もわいた。EAPは設置した範囲の中ならどこまでも見ることができる。視覚が雑多になるため、遠距離の情報は入らないようになっているが、システムに要請すればEAPは必要なことを難なく教えてくれる。先程、周囲を確認した時も、付近に脅威はないと判断してのことだった。
 ステイカーが言うにはダンピールたちは二〇メートル程度の距離なら壁の向こう側からでも見えているのではないか、とのことだった。何故わかるのかと訊ねたら、()()()確かめたことがあると言っていた。そんなことをやろうと思いついて実行するのはあの男ぐらいなものだ。
〈エコー4、上階に到着した。エコー1、来い。援護する〉
 転落防止のガラス仕切りから顔を動かし、移動を促しているエコー4がいた。
「エコー1、移動する」
 イ・ジュンスたちも静かに動き始めた。一列の黒い蛇のようになって、階段を上る。今の所問題はないようだった。そのままエコー4に持ち場を守らせて、先に進んだ。交差型のエスカレーターではないので少し迂回して、次の階層の手前で止まらなければならない。
「よし。エコー4、上る番だ――」
 その時、モールの壁の中から暗闇が盛り上がるのが見えた。黒い塊が彼らの元へ一直線に飛んでくる!
「なんだ!?
 ジュンスは叫び、身体ごと銃を振り向けた。引き金をひいたがその塊は止まらなかった。スパイク弾が肉に食い込む嫌な音を耳元で聞き、次に激しい衝撃が襲いかかる。ジュンスは無我夢中で追い払おうと腕を振り回したが、そいつに腕を噛みつかれた。あまりの激痛に悲鳴を上げた。化け物が口を左右にゆさぶり、彼の身体から腕を持っていこうとしている。上腕の骨が軋んだ。
「敵だ! 敵だ! 一人倒れた!」
 チームメイトの叫びを聞きながらジュンスは必死に抵抗した。何度も拳で相手の顔を殴りつけ顎をこじ開けようとしたが、化け物は怯まなかった。彼はパニックを起こしかけていた。このまま腕を肘のあたりから引きちぎられるか、自分で腕を引きちぎるかのどちらかに思われた。
「ジュンス! 動くな! 動くんじゃない!」
 ぱっと光を浴びる。眩しさに思わず腕を止めた。光の中でダンピールの片方の頭がひしゃげているのが見えた。釘が打ち込まれていた。瞬時に、ジュンスは首から下げている自動小銃を引っ掴み、化け物の口の中に銃口をねじ込んだ。スパイク弾は貫通して、血と脳漿と骨を撒き散らしながら天井に突き刺さっていた。
 がっくりと死体がのしかかってくる。仲間が蹴りのけてくれたので、ジュンスは死体の下からどうにか這い出した。それから命の恩人の顔を見る。ガスマスク越しでは相手の目元しかわからなかったが、確かにそいつはストレステストを受けた人物だった。
 しかし、お互いに大丈夫かなどと言っている暇はない。チームメイトは交戦を続けていた。彼もすぐさま銃床を肩に押し当て、狙いをつけて発砲する。噛みつかれた左腕がとてつもなく傷んだが、頭の中から無理やり追い出した。
〈エコー1! 戻れ! そこら中にいるぞ!〉エコー4が叫んでいる。
 視界に赤い輪郭の物体を捉える。先程までいなかったはずのものが、EAPにマークされている。モールはふた首お化けだらけだった。突然現れたかのようだ。
 痛みに呻きながらも、一体どういうことだろうとジュンスは思った。考えられることは二つだ。システムのエラーか、あるいはダンピールに裏をかかれたか。
 深く考えるのは後だ――「エコー1、後退する」ジュンスは肩で息をしながら、銃を構えなおした。
 仲間の援護を受けて移動しつつも、すぐさまモールの地図を頭の中で引っ張り出す。ジュンスは襲いかかってくる一体を射殺しながら、
「北東のショップの奥に従業員用通路の入り口がある。そこまで誘い込む。エコー6、どうだ?」
〈了解した。俺に三分くれ〉
「急いでほしい。長くは持たない……」
 襲いかかるダンピールを一つ一つ確実に撃ち殺し、敵が多すぎる時は銀スモークを投げて動きを鈍らせ、ジュンス達はじりじりと後退した。煙で視界が悪くなろうともEAPが相手の位置を教えてくれるので困りはしない。ただ、やつらが突然湧いてきたことがとても気がかりだった。
 ジュンス達のチームはエコー4の近くまでたどり着いた。あとは時間を稼ぐだけだ。
〈こちらエコー6。なかなか破壊効果が期待できる場所だ〉
〈俺たちも逃げられるんだろうな?〉エコー4が言った。
〈通用口から行ける。こっちの作りは頑丈だ〉
「エコー6、続けて」
〈ああ、わかった〉
 彼らは北東に少しずつ移動しながら、なんとかして時間を稼いだ。ジュンスは撃つたびに左腕が傷んでいた。一人抜けたため、ますます気を抜けない状況だ。一秒一秒が非常に長く感じられた。
「――よし、いいぞ。こっちだ!」
 エコー6のくぐもった声を合図にチームメイトが走り出す。
「先に行け!」
 ジュンスは叫びながら、ダンピールにスパイク弾をくれてやった。誰か一人が銃撃に集中して逃げる時間を作らないといけない状況だ。焦るところだが、今は冷静さの方が上回っている。動き回る敵に対して彼は狙いを外さなかった。信じられない話、訓練よりもいい成績だった。
「ジュンス、走れ!」
 仲間の援護射撃が始まる。言われた通り全力疾走した。化け物が背後に迫っているのを感じる。金属を引っ掻いたような耳障りな雄叫びが襲ってくる。
 その店舗は縦に細長い作りだった。扉の前で仲間が腕を振り、ここだと指示している。ほぼ全員逃げ込んでいる。イ・ジュンスが最後だった。
 彼は床に設置していた爆薬を飛び越え、一気に走り、通用口に文字通り転がりこんだ。床を滑っていたところを、たちまちチームメイトに引き寄せられ、コーナーを無理やり曲がらされた。その後にエコー6が続く。従業員用通路はT字路になっており、身を隠すには充分だった。
 封鎖した扉の向こう側が騒がしい。スチールの板がへこむ勢いで、怪物が突進しているのだ。エコー6が起爆する――
 直後、耳を聾するような破壊音が全身を打った。備えてはいたものの、衝撃は凄まじかった。床で丸まっていたジュンスの目の前でスチール扉がぶっ飛んで壁に激突していた。
 数秒後、静寂になる。
 黒い煙の中なんとか身を起こして、ジュンス達は通路をそっと伺った。周囲は墨を流したように真っ暗で、パラパラと破片が天井から落ちている。しばらくの間、角から銃口を突き出して反撃を待ったが何も起こらなかった。ジュンスとエコー4は顔を見合わせた。
「Edgar、敵はいるか」念の為システムに囁いてみた。返ってきた答えは”否”だった。
 (エコー)チームは最大の用心を心がけて、ゆっくりと戻った。システムは安全を保証したが不安が拭えない。
 未来のショップは惨憺たる光景だ。完成間近の区画であったが、徹底的に破壊されているし、黒い死体がいたるところにある。ジュンスは、天井から落ちてぶらぶらになっている照明具を押しのけつつ、主通路まで進んで周囲を見渡した。死体は外側にもあった。首や腕がなくなっているダンピールがその場で力尽きている。――エコー6は明らかに爆薬の量を見誤っていた。だがその分威力は膨大だ。あの破壊の嵐の中、生存できる生物などいない。
「警戒解除」
 ジュンスの指示と同時に、張り詰めていた空気からどっと解放された。エコー4が唸る。「ちくしょう、お前に殺されるところだった」彼は爆薬を仕掛けた人物を軽く小突いていた。――扉も吹っ飛んで来たしな、とジュンスは心のなかで付け足す。あれと衝突していたら脳震盪だけじゃすまなかったろう。
 と、アグニェシュカ・ポランスキーが通信を寄越した。
(エコー)セッション、何があったの? 今の爆発は?』
 イ・ジュンスが応答する。
「DPをトラップにかけたんです。負傷者はいません。それより問題が……」
 焦げた死体をチェックする仲間を視界に入れながら、先程発生したEAPの不具合を報告した。
 するとシステム設計者の一人であるミナ・リュードベリが答えた。索敵範囲のデッドスポットに身を潜めていたのかもしれないと彼女は言っていた。場所が広すぎるため球状の探知範囲にわずかな漏れがあるのだ。考えられる原因はそれしかない、と。
「DPにシステムを看破されているかもしれない? 僕たちは奇襲を掛けられた?」
『はっきりとは言えない。偶然の可能性も。たまたまそこが巣穴だったとか』リュードベリが続ける。『でも、もう大丈夫。私が再配置して全方位カバーした。計算上は間違いないはず。設計図にミスがなければ……』
 最高だな、とチームメイトがぼやいた。
 ポランスキーが言う。
『状況はわかった。(エコー)セッション、任務を続行して。今の爆発で位置を知られたはず。油断しないで』
「……了解」
「ジュンス、腕はいいのか?」
 ストレステストを受けた例の男が近寄ってくる。ガスマスク越しでも心配げな表情が見えた。ジュンスは左手を握って具合を確かめる。激しく噛みつかれたせいで今も痛みがある。しかし、実のところ一滴も血が流れていなかった。
「スーツのおかげで傷はない。骨も無事みたいだ。あなたに助けられたな」
 それを聞いて彼はジュンスの腰を叩いた。後で返せよな、と言わんばかりに。「期待してるぜ、ご同輩」
 要するに”俺の活躍を報告書に書けよ”という意味である。
「わかってる」ジュンスは呟いて、チームに言った。「すぐに移動する。餌食者のいる場所まであと少しだ――」
 全員、手早く武器を整えて、ジュンスを先頭にまた来た道を引き返した。従業員用通路から目的の場所へ向かうことにした。
 
 
 
 ポランスキーの危惧は外れた。あれほど大きな爆発があったというのに、移動中に遭遇したダンピールは二体だ。全てEAPの読み通りだった。通路の奥から出てきた一体をジュンスが撃ち殺し、階下から現れた一体は後方のエコー4が始末した。あらかじめ来る方向がわかっていたので、どちらも難なく対処できた。
 四階。
「目標まで六〇メートル」
 狭い通路を抜けて再び店舗側に来た。今度のはかなり大きく、先程彼らが破壊した区画の三倍は広かった。大型のブランド店舗が入る予定なのかもしれない。ところどころに柱が並ぶが、視界は良好だ。
〈見ろ、あそこだ〉
 チームメイトが頭を振る。吹き抜けの奥に行くべき場所があった。汚れたシートに覆われた全面ガラス張りの店舗。隙間風のせいで黄色い警告テープがなびいている。人影が見えた。内部は充分すぎるほどに明るく、真夜中のコンビニのように眩しかったのでよくわかった。
 エコー4も確認したようだ。ジュンスに頷いている。それを見てから彼は無線を起動した。
「こちらエコー。目標を確認。これより接近する」
『了解。気をつけて』――ポランスキーがジュンスの無線に応答した。
 慎重に慎重を重ねてエコーチームは前進した。付近に驚異はなかった。ミナ・リュードベリを信用するとして、この辺りのダンピール達は出払っているらしい。
「目標地点に到達」
 シートの隙間から中を見た。男が三人。全員疲れ果てて隅で丸くなっている。事前の話通り奥側に死体の山があった。EAPに反応はなかった。正直に言って、彼はほっとしていた。こんなところで遭遇すれば中にいる三人はひとたまりもない。
 今から救助に取り掛かる旨を報告し、銃に安全装置をかけて首から下げた。
 出入り口らしき部分は資材で塞がれている。巨大な合板や鉄骨、パイプ……エコー4達に警戒をあたらせて、ジュンス達は障害物を一つ一つ退けていくことにした。怪物の姿がないとはいえ、ガラスを割って騒々しく事を運びたくなかったのだ。
 と、か細い声が聞こえる。
「誰だ……?」
餌食者は意識があるようだ。物音も聞こえる。おそらく、安全を求めて寝転がっていた場所を移動したのだろう。ジュンスは合板を一緒に持ち上げているチームメイトと視線を合わせる。救助に来たというにはお互いに物騒な格好をしていた。このまま乗り込めば相手を混乱させるかもしれない。
「音を立てないで。じっとしていてください」ジュンスはなるべく柔らかい声で言った。「我々は助けに来ました。どうかそこを動かないで」
 力仕事は難なく進んだ。鍛えた人間が取りかかればあっという間だ。最後に斜めに塞いでいた鉄パイプを横に押し退けて、ガラス扉が動くようにした。
 ジュンスがマグライトで中を照らすと、隅で縮こまっていた餌食者は、眩しそうに腕で顔を防御していた。意識があるのは一人だけのようだ。他の二人はそれぞれの場所でぐったりとしている。呼吸はあるようだ。何日分かはわからないが、全員髭がかなり伸びている。床には食品袋やからっぽの缶詰やペットボトルが散乱していた。虫がたかっている。嘔吐の痕跡もあった。
「もう大丈夫です。今から手当てをするので……」そう言ってジュンスが手を伸ばすと振り払われた。男はがたがた震えていた。
 ジュンスは死体の山をちらりと見た。あちらも吐き気を催すほど蝿がまとわりついている。いつあの山に加わるのかと怯えながら閉じ込められる者の気分は、実際に起こってみなければわからないだろう。
 ジュンスは無線連絡し、ミナ・リュードベリに全員の名前を調べてもらった。ジュンスが男の名前を呼び、公的機関の要請で出向した特別チームであることを説明すると、男は安心したのか拒絶の態度を取らなくなった。
「驚かないでください。あなたはたくさんの血を失っています。おわかりですよね? 今から緊急輸血をしなければいけないんです。針を見ても怖がらないで」
 丁寧に話かけながらジュンスは医療パックを背後から取り出し、男の腕を取った。腕は噛み跡だらけだった。獣にしつこく襲われたかのように。ライアスは子犬のような目でジュンスを見上げていた。脂汗をかいている。
「ミスタ・ライアス。大丈夫です。これで助かりますから」
「……わかった、わかったよ。やってくれ」
 掠れた声で頷く。ジュンスは保護袋を破いて手当てを始めた。残りの二人にもチームメイトが輸血している。彼らが使用しているのはどこにも出回っていない血液製剤だ。餌食者のための特注品である。
「さあ、この薬を飲んで」
 タブレット薬剤を口に含ませミネラルウォーターを与えると、ライアスは勢いよくあおっていた。一息つく間もなく、男はジュンスの戦闘服を掴む。「早くここから出たいんだ。俺を出してくれ。もうここにはいたくない……」
 ジュンスはライアスに肩を貸した。立ち上がらせたが、血を失っているせいで相手の足元がよたよたとしている。担架を使うべきだがすでに他の餌食者二人を運ぶために使用し、人員も割いているので、気の毒だがライアス氏には歩いてもらわなければらない。相手の意識をなるべく保たせようと彼は話しかけた。ライアスは大事なものを持ち歩くように血液パックを胸に抱いている。
「どれくらいこの場所に?」
「わからないけど、多分、五日くらいだ」
 治療の真っ只中である他の餌食者より先に、ジュンス達はガラス張りの部屋を出ることにした。外ではチームメイトが周囲に目を光らせていた。
「ここを出たら専門医のいる病院へただちに連れていきます」
「そうしてもらいたい」
「ご家族は?」
「母親が家にいるんだ……心配しているだろうな……」
 すぐに会えますよ、とジュンスがなだめるように言った時、チームメイトが鋭く叫んだ。
「――ジュンス! まずいぞ!」
 ライアスの腕を肩に担いだまま、ガラス張りの部屋を振り返った。あっと思う間に巨大な穴が彼に襲いかかっている。赤い輪郭に形取られた人のようなもの。鼻から下の長く尖った無数の牙。奇妙なことに、そいつには首がなかった。耳まで裂けた大口を、顎が外れるほど開いたせいだった。眼前に喉の奥が迫ってくる。ジュンスは身体が硬直して身動きが取れなかった。チームメイトが何か大声で叫んでいる。
 ビシッと風が唸った。
 次の瞬間、餌食者が――ダンピールが、壁に衝突してガラスに亀裂を作っていた。頭部は潰れて、見事に中身が飛び出している。出血は少ない……少なすぎるほどだ。餌食者の一人は間に合わなかった。
 ジュンスは振り返った態勢で立ち尽くしていた。
 ステイカーの言葉が思い出される。支援はつけた。何も心配はない。
 耳に詰めた受信機が音を拾っている。
〈アルファ7。DPを一体射殺〉
 ウィリアム・ハントの無線だった。全員黙っていた。餌食者だったものはぴくりとも動かず、投げ捨てられた人形のように壁際で息絶えている。EAPも沈黙していた。
(エコー)セッション。こちらアルファ7。応答せよ〉
〈……了解。こちら(エコー)。対象、射殺。負傷者なし〉
 言葉を失っているジュンスに代わり、エコー4が応答した。戦々恐々とした声音だった。
〈了解。引き続き援護(・・)する。ただちに脱出しろ〉
 信じられねえ、と誰かがうわ言めいた呟きを発した。そのコメントが治療した餌食者が襲いかかってきたことに対してか、驚異的な狙撃技術に関してか、ジュンスにはわからなかった。
 ガラスの区画では担架が二つ用意されていた。一つは埋まっているが、もう一つは空になっている。担架の両端で、チームの二人が驚いたように尻もちをついていた。状況からして、載せる途中で餌食者が目を覚ましたのだろう。ジュンスのいる位置からでは確認できないが、反対側のガラスの壁に弾丸が貫通した穴があるはずだ。
「……いつからだろう?」
 ジュンスがぽつりと場違いな疑問を発する。いつからハントは彼らのお守りをしていたのだろうか? 彼の疑問に誰も答えなかったため独り言になったが、答えはもうわかっていた。階下でダンピールに襲われた時から、とっくに支援はついていたのだ。思い返せば、店舗に駆け込んでいる時、追いかけてきた連中がやけに鈍かった。
 ぞっとした顔でライアスがジュンスを見ている。血の気の足りない顔をさらに蒼白にさせて怯えていた。いつでも自分は殺される対象なのだと状況を理解しているように見えた。ジュンスは言葉に詰まった。掛けてやるべき言葉を必死に探す。彼とてこれは望まない結果だった。
「我々の言うことを聞いてください。そうすれば何も起きません」
 ライアスに胸ぐらを掴まれた。チームメイトが即座に反応して銃口を男に向けたが、ジュンスは撃つなと身振りで示した。ライアスは激高したわけでなかった。必死にすがっている。「話を聞いてくれ。思い出したんだ」
「サー、落ち着いて……あなたは血が足りてないんです。興奮すると心臓に負担がかかります。我々を襲わなければ、あなたは絶対に安全なんです」
 そうじゃない、とライアスは首を振った。男の目が血走っている。
「そうじゃない。他にもいるんだ。若い女が他に……あの場所にいたけど、天井から逃げ出して。数時間前のことだ」
「それはどういう意味です?」
「あの女――俺はあの女に騙されてここに連れてこられたんだ!」
 


【2019/08/01 更新】

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