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Conflict 03
結局のところ、その日彼らは街から出られず、モーテルで一夜を過ごさなければならなかった。と言ってもエリファはろくに口を聞いてくれないので、ステイカーが勝手にそう決めただけなのだが。天候が崩れた中、妹と犬を連れて夜通し走り続けるのも難しいように思われた。二人には休む場所が必要だった。
雷鳴が近づき、雨はいよいよ本降りになってきた。
〈ナイト・スカイ・ロッジ〉の、愉快に笑う月と星の看板はそんな中でもかなり目立つ。モーテルの名前の下にはかすれた文字で『Wi—fi無料』、『朝食付き』と書いてあった。昔であれば『カラーテレビ有り』と掲げてあったのかもしれない。モーテル自体は、よくある二階建ての宿泊所である。
車両を駐車場に止めたステイカーは、エリファにここで待つように言った。彼女からは返事もなかった。一方、ブレイクだけは元気よく吠えてくれた。
モーテルの受付に立つ中年の男は、目を合わせたがらないステイカーをやや不審に思っていたようだが、滞りなく手続きを進めた——前払いで、一泊70ドル、子供とペットは無料だ——彼は一階の部屋鍵をステイカーに渡したあと、彼の次にやってきた客と話していた。Airbnb(民泊)のような煩わしさがないのがモーテルの良い所なので、好んで使う客は当然いる。
部屋の前にGT―Rを止めたステイカーは、エリファより先に下りて中を確認した。TVと電子レンジと冷蔵庫付きで奥にシャワールームがある。それにクイーンサイズのベッドが一つ。清掃済みの紙が枕の近くに立てかけてある。簡素でわりと清潔な場所だった。ここがモーテルだからといって不審な点は何もない。これから事件が起こるんだろう、と彼は車両の積み荷のことを思い返した。
「ベッドが一つしかないんだけど」部屋に入るなり、エリファがむすっとして言った。
「俺は寝ないからいい」
ステイカーは黒いナイロンバッグを床に置いて、中からペットボトルとシリコン製の皿を取り出した。折りたたみ式のそれを組み立て、ぬるくなった水をそそぐと、ブレイクはいきおいよく皿に口を突っこんだ。
エリファはベッドに倒れこむ。
「明日は夜明け前にここを出る。食事は? 何が欲しい?」
「……別に。何もいらない」
エリファは寝返りをうって丸めた背中を彼に向ける。ハンガーストライキである。
「じゃあ俺も買いに行かない」
ステイカーはカーテンを引き、窓際の安っぽいテーブルと椅子を壁側に移動させた。
「でもお前はそうはいかないよな、ブレイク?」と彼はシェパードに目をやる。腹ペコのブレイクは、探るようにナイロンバッグのにおいを嗅いでいた。ステイカーは食事を与えてやる。ブレイクは床に伏せた姿勢で、前足で器用にそれをつかみ、夢中になって噛みついている。ばりばりという咀嚼音が部屋に響いた。
彼も一口噛みついて、これからの予定を考えた。そうしている間、窓の外では雨がしとしと降る音と、誰かが話しながら通路を歩いている音が聞こえた。
「なに食べてるの」
いつの間にか、エリファがじとっと彼を見ている。恨めしそうな顔に見えた。
ステイカーは口にくわえていたものを取りだし、妹に見せる。「自家製の鳥のジャーキー」犬の食事に使っているが、人間が食べても構わない。
エリファはさっと手を出してきた。
少量わけてやると、彼女は不機嫌な顔をしながら噛みちぎっていた。味に文句はないらしい。ステイカーは自分の食べる量を手に取って、残りを全部妹にやった。
ブレイクは腹がふくれて満足したのか、入口のマットの上で丸くなっていた。
椅子に腰かけたステイカーは、壁に頭をもたせかけ、カーテンの隙間から外を眺める。雨脚は弱かった。通り雨だろう。この様子ならすぐにでも車を走らせて、適当な処分場所を見つけた方がいい。荷は腐敗が始まっているはずだ。それを終えたら戻ってエリファを起こしてモーテルを出る。車はここまで持ってくれたことだし、最後まで走り通せることを期待したい。エンジンの音は悪くなかった。
物思いにふけっている間、エリファがずっとこちらに視線を投げていることに、ステイカーは気づいていた。
「受付でIDを見せたんでしょう?」
ステイカーは首をわずかに動かし、妹をちらと見るや、また窓の外に意識を向けた。ろくな反応を返さない彼に不安を覚えたのか、エリファがまた聞いてくる。
「……本当に、何かに追われているの?」
「もう寝た方がいいよ」
今度は一瞥も返さなかった。
しばらくすると、エリファがベッドから起き上がる気配がした。大きなため息とともに。「ジュース買ってくる。喉が渇いたから」
ステイカーが立ち上がると、彼女は扉の前で、キッと振り返った。
「ボディーガードはいらない。すぐ近くだよ」シェパード犬が首を起こしてエリファを見上げている。「私は六歳の子供じゃない」
自動販売機は、二十四時間対応の受付の隣にある。ここから部屋が五つ分離れている。
置かれている状況をはっきり言えない以上、十代の複雑な時期にある彼女を説き伏せることは、そう簡単なことではない。彼としても絶対に口を割らない気でいる。
仕方なく、ステイカーはジャーマン・シェパードを視線で示した。
「犬を連れていくんだ。こいつを見てエリファを襲おうと思うやつはいないよ」
彼女は頷いて、シェパードを呼んだ。
「おいで、ブレイク」
ブレイクがやおら立ち上がる。エリファに近寄り、フレンドリーな態度で尻尾を振った。
扉の錠を開ける妹に彼は念を押す。
「困ったことがあれば、すぐに知らせろよ」
エリファは「そんなこと起こるはずないのに」という顔をして出て行った。二人の足音が遠ざかっていく。
ステイカーは黒いナイロンバッグをテーブルの上に置いてから、再度椅子に腰を下ろす。バッグはあまりにサイズが大きすぎるため、モーテルの簡素なテーブルには半分も乗らない。彼はナイロン生地の上に両手を組んで置いた。そうしていると気分が落ち着いた。おかしな話だ——都市部でこんな長物など持って歩けるはずもないのに。
腕時計に視線を落とす。その堅牢な製品は、六年も彼に虐待されたせいでベルトを含めてあちこちが傷だらけだった。GT―Rの鍵がテーブルの隅で鈍く光っている。
エリファは兄のことを、英雄までとはいわないものの、母国に尽くした人間として多少なりとも誇りに思ってくれている。今や世界中を探してもそんな人間は妹ぐらいなものだ。だからこそステイカーが監視されている可能性など信じられない。
そう、彼女は何も知らない。何故自分に母親がいないのかさえ、真実を知らされていない。ステイカーはそれを話すことをずっと避けてきた。
時計が五分経って、ステイカーは遅いなと思い始めた。妹も自動販売機の飲み物ごときでそう悩む性格ではない。椅子から立ち上がった時、通路を早足で戻る音が聞こえた。それに動物の爪がコンクリートを蹴る音も。
顔を青くしたエリファが部屋に戻ってきた。
「何があった?」
彼女はつかつかとこちらに近寄る。
「これ——これ見て」
ステイカーは目を疑った。エリファは手に軽量のラップトップを兄に突き出している。もちろん、部屋を出る前に彼女はそんなものを持っていなかった。端末の隅に〈ナイト・スカイ・ロッジ〉のお月さんマークのステッカーが貼ってある。画面には彼女がよく使っているソーシャル・メディアサイトが表示されており、エリファらしきアカウント名でログイン済みであった。なんてこった、と彼は思った。表向きはあたふたしないが、内心では大慌てである。
「早く返してこい」エリファが従業員をぶん殴ってそれを強奪したのかは知らないが、受付のあの位置なら、間違いなくその瞬間が監視カメラに写っている。「自分が何をやったかわかってるのか?」
「受付に誰もいなかったもん。ちょっと借りただけよ」とエリファ。
「言い訳にならない。キャッシュと指紋を全部消して元の場所に戻すんだ」
しかし彼の妹は兄に似て大胆で、しかも強情だった。端末を胸元に押し付けてくる。
「ちゃんと見て! マックスからDMが届いてる。ミカエラに連絡を取ろうとしたら、これが来てたの」
「あの野郎のことはブロックして忘れろよ」昼間のショービズの片割れが何の用だというのか?
「読んでってば!」
彼は目をしばたたき、なんだってこんなことにという思いをありありにして首を振り、ラップトップを受け取る。
そのメッセージを読んでいるうちにステイカーの顔つきが変わる。彼は自分で気がついていないが、表情が少しずつ抜け落ちていくのだった。
内容は端的に言って、マックスからの危機を知らせるメッセージだった。
『電話が繋がらなかった』『怪我をしたの。悪いやつらがいる。襲われた』『リンジーが消えた』『お兄さんはいる? 助けて…お願いします』
受信時刻によれば、そのDMが届いたのは十分前だ。混乱しているのか文章が要領を得ない。
悪いやつらってなんだ? さすがの彼も、一人でギャングの集団など相手にできない。
「こんなものを送ってくるぐらいだ。なんとかして、もう自分で緊急電話番号にかけた後だろう」ステイカーはエリファにラップトップを返した。「してやれることは何もない」
もう彼の頭の中では、このモーテルから離れて、できるだけ遠くへ逃げることでいっぱいになっていた。
「私たちの方が早く助けに行ってあげられるかも」と彼女は言う。
「そんなはずはない。邪魔になるだけだ」
だが、なおもエリファは食い下がってきた。
「でも、怪我をしてるって! 動けないほど酷かったら……」
「——俺になんの関係がある?」
そう言ってから、しまったと彼は思った——自分でも驚くほど冷ややかな声色だった。
エリファの両眼がふと暗くなるのをはっきりと目にした。彼女は細い両腕をだらりと下ろして、気力を無くしてしまったようにその場で立ち尽くした。エリファに失望されたことを彼は理解していた。口内に苦い味が広がってくる。可哀想なエリファ。きっと明日の朝に、悲惨なニュースを知り、しばらく塞ぎ込んでしまうだろう。だがそれも時間が解決してくれるはずだ。今まで何度もそうだった。
荷物をまとめだしたステイカーに、妹は一縷の望みを抱いたが、すぐにそれが間違いだったことを知る。「車中泊に変えよう」と、ショルダーバッグを渡した時に、エリファがぽつりと言った。
「……何のために軍に入ってエリートになったの?」
ステイカーは動きを止めた。一瞬だけ、呼吸までやめていたような錯覚さえした。
エリファは続ける。
「そうやって逃げ回るため? ずっとそんな人生なの。家族からも逃げ出して」
ステイカーはゆっくりとした動作で体を起こし、エリファを見やる。彼は手のひらに嫌な汗をかいていた。心拍数はわずかに上昇している。
彼は妹と睨みあう。エリファの目はもう失望しておらず、むしろ決然としたものが湧きあがっていた。
「エリファが死ぬよりはいい」と、ステイカー。
「私のせいにするな!」
エリファはラップトップをベッドに投げ捨てた。そうしてテーブルに置いてあったGT―Rの鍵をひったくって、部屋を飛び出そうとする。
その手首が素早く掴まれた。引き留められたエリファがステイカーを振り向く。妹の頬は涙で濡れて光っていた。
ステイカーは真っすぐと相手の目を見て言った。「場所はどこだ?」
それを聞いたエリファは、体当たりする勢いで彼の首に抱きついた。
「わがまま言ってごめん……」と妹は小さくすすり泣いていた。
その背中を軽く叩いて、
「行こう。でもかかわるのはこれが最後だよ」
うん、とエリファは涙を拭いて頷いた。
ステイカーは心の中でため息をはいていた——ちくしょう、そんな風に思われるのは我慢がならない。白状すると、妹の言葉にものすごい衝撃を受けていた。クズだと言われるよりショックだった——彼は腐っても軍人だった。腰抜けよばわりはかなり堪えた。
それに放っておけば、エリファは自分で現場まで乗りつけていくに違いない。実際彼女はそうしようとした。車がなければ、また何か名案を思い付き、実行するはずだ。先ほどラップトップを借りてきたように。警察の厄介になることだって厭わないだろう。
ステイカーは黒いナイロンバッグを担ぎ、エリファとブレイクを連れてモーテルの外に出る。妹をここに置いていくわけにはいかなかった。SNSにログインしなければそれも考えたのだが。
雨が止み、黒い雲が流れていく。空は夕暮れと夜の境界上にとどまり、薄昏い色に染まっている。遠くで街のシルエットがぼんやりと浮き上がっていた。
かなり違和感があった。まず、静かだと彼は思った。それから時計を確認した。日没の時間はとうに過ぎている。
ステイカーはエリファに先に車に乗るよう促し、自身はロビーへと急ぎ足で出向く。彼女の言う通り誰もいなかった。無人の受付所で古びた天井ファンが回っているだけだ。ステイカーは返すものを返し、その場をすぐに去った。
どうにも静かすぎる、と彼は思った。モーテルからまるで人の気配がしない。
車に戻る途中、彼は通路で立ち止まった。2番の部屋の扉が数センチ開いており、中からテレビの音が漏れ聞こえている。ステイカーは数秒迷ったが、そっと表面を押した。扉の隙間から、シーツがくしゃくしゃになったベッドが目に入った。テーブルの上ではコーヒーが湯気を立てている。上着も荷物も置きっぱなしで、奥の手洗い場では水が垂れ流されている。テレビの画面が時々ノイズで歪みながら、新車の宣伝をしていた。どうもバスルームは使われていないようだった。その扉が開け放たれたままだ。
何故鍵がかかっていないんだ? この部屋の客はどこに行った? それとも偶然なのか? 他の客は……?
疑問がわきあがる中、次第にステイカーは不快な気分になりはじめていた。頭のてっぺんからじりじりとするようなあの焦げつきを感じる。
なにか嫌な覚えがあった。
彼は一歩引いてその部屋を過ぎようとした。その時だ。三つ先の扉の前で、黒い裾が床を引きずり、するりと部屋の中に消えたような気がした。正面から見たわけではない。視界の隅にそう映っただけだ。見間違いだと思った。扉は閉まっているし、閉まる音もしなかった。
橙色の明かりが、無人の通路を照らしている。
「ジェイ、早く行こう!」
エリファが車の窓から身を乗り出している。急かされたステイカーは、不気味なその部屋から静かに離れ、車に乗り込んだ。
結局のところ、その日彼らは街から出られず、モーテルで一夜を過ごさなければならなかった。と言ってもエリファはろくに口を聞いてくれないので、ステイカーが勝手にそう決めただけなのだが。天候が崩れた中、妹と犬を連れて夜通し走り続けるのも難しいように思われた。二人には休む場所が必要だった。
雷鳴が近づき、雨はいよいよ本降りになってきた。
〈ナイト・スカイ・ロッジ〉の、愉快に笑う月と星の看板はそんな中でもかなり目立つ。モーテルの名前の下にはかすれた文字で『Wi—fi無料』、『朝食付き』と書いてあった。昔であれば『カラーテレビ有り』と掲げてあったのかもしれない。モーテル自体は、よくある二階建ての宿泊所である。
車両を駐車場に止めたステイカーは、エリファにここで待つように言った。彼女からは返事もなかった。一方、ブレイクだけは元気よく吠えてくれた。
モーテルの受付に立つ中年の男は、目を合わせたがらないステイカーをやや不審に思っていたようだが、滞りなく手続きを進めた——前払いで、一泊70ドル、子供とペットは無料だ——彼は一階の部屋鍵をステイカーに渡したあと、彼の次にやってきた客と話していた。Airbnb(民泊)のような煩わしさがないのがモーテルの良い所なので、好んで使う客は当然いる。
部屋の前にGT―Rを止めたステイカーは、エリファより先に下りて中を確認した。TVと電子レンジと冷蔵庫付きで奥にシャワールームがある。それにクイーンサイズのベッドが一つ。清掃済みの紙が枕の近くに立てかけてある。簡素でわりと清潔な場所だった。ここがモーテルだからといって不審な点は何もない。これから事件が起こるんだろう、と彼は車両の積み荷のことを思い返した。
「ベッドが一つしかないんだけど」部屋に入るなり、エリファがむすっとして言った。
「俺は寝ないからいい」
ステイカーは黒いナイロンバッグを床に置いて、中からペットボトルとシリコン製の皿を取り出した。折りたたみ式のそれを組み立て、ぬるくなった水をそそぐと、ブレイクはいきおいよく皿に口を突っこんだ。
エリファはベッドに倒れこむ。
「明日は夜明け前にここを出る。食事は? 何が欲しい?」
「……別に。何もいらない」
エリファは寝返りをうって丸めた背中を彼に向ける。ハンガーストライキである。
「じゃあ俺も買いに行かない」
ステイカーはカーテンを引き、窓際の安っぽいテーブルと椅子を壁側に移動させた。
「でもお前はそうはいかないよな、ブレイク?」と彼はシェパードに目をやる。腹ペコのブレイクは、探るようにナイロンバッグのにおいを嗅いでいた。ステイカーは食事を与えてやる。ブレイクは床に伏せた姿勢で、前足で器用にそれをつかみ、夢中になって噛みついている。ばりばりという咀嚼音が部屋に響いた。
彼も一口噛みついて、これからの予定を考えた。そうしている間、窓の外では雨がしとしと降る音と、誰かが話しながら通路を歩いている音が聞こえた。
「なに食べてるの」
いつの間にか、エリファがじとっと彼を見ている。恨めしそうな顔に見えた。
ステイカーは口にくわえていたものを取りだし、妹に見せる。「自家製の鳥のジャーキー」犬の食事に使っているが、人間が食べても構わない。
エリファはさっと手を出してきた。
少量わけてやると、彼女は不機嫌な顔をしながら噛みちぎっていた。味に文句はないらしい。ステイカーは自分の食べる量を手に取って、残りを全部妹にやった。
ブレイクは腹がふくれて満足したのか、入口のマットの上で丸くなっていた。
椅子に腰かけたステイカーは、壁に頭をもたせかけ、カーテンの隙間から外を眺める。雨脚は弱かった。通り雨だろう。この様子ならすぐにでも車を走らせて、適当な処分場所を見つけた方がいい。荷は腐敗が始まっているはずだ。それを終えたら戻ってエリファを起こしてモーテルを出る。車はここまで持ってくれたことだし、最後まで走り通せることを期待したい。エンジンの音は悪くなかった。
物思いにふけっている間、エリファがずっとこちらに視線を投げていることに、ステイカーは気づいていた。
「受付でIDを見せたんでしょう?」
ステイカーは首をわずかに動かし、妹をちらと見るや、また窓の外に意識を向けた。ろくな反応を返さない彼に不安を覚えたのか、エリファがまた聞いてくる。
「……本当に、何かに追われているの?」
「もう寝た方がいいよ」
今度は一瞥も返さなかった。
しばらくすると、エリファがベッドから起き上がる気配がした。大きなため息とともに。「ジュース買ってくる。喉が渇いたから」
ステイカーが立ち上がると、彼女は扉の前で、キッと振り返った。
「ボディーガードはいらない。すぐ近くだよ」シェパード犬が首を起こしてエリファを見上げている。「私は六歳の子供じゃない」
自動販売機は、二十四時間対応の受付の隣にある。ここから部屋が五つ分離れている。
置かれている状況をはっきり言えない以上、十代の複雑な時期にある彼女を説き伏せることは、そう簡単なことではない。彼としても絶対に口を割らない気でいる。
仕方なく、ステイカーはジャーマン・シェパードを視線で示した。
「犬を連れていくんだ。こいつを見てエリファを襲おうと思うやつはいないよ」
彼女は頷いて、シェパードを呼んだ。
「おいで、ブレイク」
ブレイクがやおら立ち上がる。エリファに近寄り、フレンドリーな態度で尻尾を振った。
扉の錠を開ける妹に彼は念を押す。
「困ったことがあれば、すぐに知らせろよ」
エリファは「そんなこと起こるはずないのに」という顔をして出て行った。二人の足音が遠ざかっていく。
ステイカーは黒いナイロンバッグをテーブルの上に置いてから、再度椅子に腰を下ろす。バッグはあまりにサイズが大きすぎるため、モーテルの簡素なテーブルには半分も乗らない。彼はナイロン生地の上に両手を組んで置いた。そうしていると気分が落ち着いた。おかしな話だ——都市部でこんな長物など持って歩けるはずもないのに。
腕時計に視線を落とす。その堅牢な製品は、六年も彼に虐待されたせいでベルトを含めてあちこちが傷だらけだった。GT―Rの鍵がテーブルの隅で鈍く光っている。
エリファは兄のことを、英雄までとはいわないものの、母国に尽くした人間として多少なりとも誇りに思ってくれている。今や世界中を探してもそんな人間は妹ぐらいなものだ。だからこそステイカーが監視されている可能性など信じられない。
そう、彼女は何も知らない。何故自分に母親がいないのかさえ、真実を知らされていない。ステイカーはそれを話すことをずっと避けてきた。
時計が五分経って、ステイカーは遅いなと思い始めた。妹も自動販売機の飲み物ごときでそう悩む性格ではない。椅子から立ち上がった時、通路を早足で戻る音が聞こえた。それに動物の爪がコンクリートを蹴る音も。
顔を青くしたエリファが部屋に戻ってきた。
「何があった?」
彼女はつかつかとこちらに近寄る。
「これ——これ見て」
ステイカーは目を疑った。エリファは手に軽量のラップトップを兄に突き出している。もちろん、部屋を出る前に彼女はそんなものを持っていなかった。端末の隅に〈ナイト・スカイ・ロッジ〉のお月さんマークのステッカーが貼ってある。画面には彼女がよく使っているソーシャル・メディアサイトが表示されており、エリファらしきアカウント名でログイン済みであった。なんてこった、と彼は思った。表向きはあたふたしないが、内心では大慌てである。
「早く返してこい」エリファが従業員をぶん殴ってそれを強奪したのかは知らないが、受付のあの位置なら、間違いなくその瞬間が監視カメラに写っている。「自分が何をやったかわかってるのか?」
「受付に誰もいなかったもん。ちょっと借りただけよ」とエリファ。
「言い訳にならない。キャッシュと指紋を全部消して元の場所に戻すんだ」
しかし彼の妹は兄に似て大胆で、しかも強情だった。端末を胸元に押し付けてくる。
「ちゃんと見て! マックスからDMが届いてる。ミカエラに連絡を取ろうとしたら、これが来てたの」
「あの野郎のことはブロックして忘れろよ」昼間のショービズの片割れが何の用だというのか?
「読んでってば!」
彼は目をしばたたき、なんだってこんなことにという思いをありありにして首を振り、ラップトップを受け取る。
そのメッセージを読んでいるうちにステイカーの顔つきが変わる。彼は自分で気がついていないが、表情が少しずつ抜け落ちていくのだった。
内容は端的に言って、マックスからの危機を知らせるメッセージだった。
『電話が繋がらなかった』『怪我をしたの。悪いやつらがいる。襲われた』『リンジーが消えた』『お兄さんはいる? 助けて…お願いします』
受信時刻によれば、そのDMが届いたのは十分前だ。混乱しているのか文章が要領を得ない。
悪いやつらってなんだ? さすがの彼も、一人でギャングの集団など相手にできない。
「こんなものを送ってくるぐらいだ。なんとかして、もう自分で緊急電話番号にかけた後だろう」ステイカーはエリファにラップトップを返した。「してやれることは何もない」
もう彼の頭の中では、このモーテルから離れて、できるだけ遠くへ逃げることでいっぱいになっていた。
「私たちの方が早く助けに行ってあげられるかも」と彼女は言う。
「そんなはずはない。邪魔になるだけだ」
だが、なおもエリファは食い下がってきた。
「でも、怪我をしてるって! 動けないほど酷かったら……」
「——俺になんの関係がある?」
そう言ってから、しまったと彼は思った——自分でも驚くほど冷ややかな声色だった。
エリファの両眼がふと暗くなるのをはっきりと目にした。彼女は細い両腕をだらりと下ろして、気力を無くしてしまったようにその場で立ち尽くした。エリファに失望されたことを彼は理解していた。口内に苦い味が広がってくる。可哀想なエリファ。きっと明日の朝に、悲惨なニュースを知り、しばらく塞ぎ込んでしまうだろう。だがそれも時間が解決してくれるはずだ。今まで何度もそうだった。
荷物をまとめだしたステイカーに、妹は一縷の望みを抱いたが、すぐにそれが間違いだったことを知る。「車中泊に変えよう」と、ショルダーバッグを渡した時に、エリファがぽつりと言った。
「……何のために軍に入ってエリートになったの?」
ステイカーは動きを止めた。一瞬だけ、呼吸までやめていたような錯覚さえした。
エリファは続ける。
「そうやって逃げ回るため? ずっとそんな人生なの。家族からも逃げ出して」
ステイカーはゆっくりとした動作で体を起こし、エリファを見やる。彼は手のひらに嫌な汗をかいていた。心拍数はわずかに上昇している。
彼は妹と睨みあう。エリファの目はもう失望しておらず、むしろ決然としたものが湧きあがっていた。
「エリファが死ぬよりはいい」と、ステイカー。
「私のせいにするな!」
エリファはラップトップをベッドに投げ捨てた。そうしてテーブルに置いてあったGT―Rの鍵をひったくって、部屋を飛び出そうとする。
その手首が素早く掴まれた。引き留められたエリファがステイカーを振り向く。妹の頬は涙で濡れて光っていた。
ステイカーは真っすぐと相手の目を見て言った。「場所はどこだ?」
それを聞いたエリファは、体当たりする勢いで彼の首に抱きついた。
「わがまま言ってごめん……」と妹は小さくすすり泣いていた。
その背中を軽く叩いて、
「行こう。でもかかわるのはこれが最後だよ」
うん、とエリファは涙を拭いて頷いた。
ステイカーは心の中でため息をはいていた——ちくしょう、そんな風に思われるのは我慢がならない。白状すると、妹の言葉にものすごい衝撃を受けていた。クズだと言われるよりショックだった——彼は腐っても軍人だった。腰抜けよばわりはかなり堪えた。
それに放っておけば、エリファは自分で現場まで乗りつけていくに違いない。実際彼女はそうしようとした。車がなければ、また何か名案を思い付き、実行するはずだ。先ほどラップトップを借りてきたように。警察の厄介になることだって厭わないだろう。
ステイカーは黒いナイロンバッグを担ぎ、エリファとブレイクを連れてモーテルの外に出る。妹をここに置いていくわけにはいかなかった。SNSにログインしなければそれも考えたのだが。
雨が止み、黒い雲が流れていく。空は夕暮れと夜の境界上にとどまり、薄昏い色に染まっている。遠くで街のシルエットがぼんやりと浮き上がっていた。
かなり違和感があった。まず、静かだと彼は思った。それから時計を確認した。日没の時間はとうに過ぎている。
ステイカーはエリファに先に車に乗るよう促し、自身はロビーへと急ぎ足で出向く。彼女の言う通り誰もいなかった。無人の受付所で古びた天井ファンが回っているだけだ。ステイカーは返すものを返し、その場をすぐに去った。
どうにも静かすぎる、と彼は思った。モーテルからまるで人の気配がしない。
車に戻る途中、彼は通路で立ち止まった。2番の部屋の扉が数センチ開いており、中からテレビの音が漏れ聞こえている。ステイカーは数秒迷ったが、そっと表面を押した。扉の隙間から、シーツがくしゃくしゃになったベッドが目に入った。テーブルの上ではコーヒーが湯気を立てている。上着も荷物も置きっぱなしで、奥の手洗い場では水が垂れ流されている。テレビの画面が時々ノイズで歪みながら、新車の宣伝をしていた。どうもバスルームは使われていないようだった。その扉が開け放たれたままだ。
何故鍵がかかっていないんだ? この部屋の客はどこに行った? それとも偶然なのか? 他の客は……?
疑問がわきあがる中、次第にステイカーは不快な気分になりはじめていた。頭のてっぺんからじりじりとするようなあの焦げつきを感じる。
なにか嫌な覚えがあった。
彼は一歩引いてその部屋を過ぎようとした。その時だ。三つ先の扉の前で、黒い裾が床を引きずり、するりと部屋の中に消えたような気がした。正面から見たわけではない。視界の隅にそう映っただけだ。見間違いだと思った。扉は閉まっているし、閉まる音もしなかった。
橙色の明かりが、無人の通路を照らしている。
「ジェイ、早く行こう!」
エリファが車の窓から身を乗り出している。急かされたステイカーは、不気味なその部屋から静かに離れ、車に乗り込んだ。
【2021/08/10 掲載】