狩りの終焉|Living Dead the Sanctuary 

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――誰であっても、どんな血でも食べるのなら、わたしはその血を食べる者に敵して顔を向け、
その者を民のうちから絶つであろう。何故なら、肉体の生命は血にあるからである。
(レビ記十七章一〇、一一節)
 



 
 

 
序章 狩りの終焉/THE END OF HUNTING
 
 
 古い革表紙の裏に走り書きがある。
 
 二つの世界を彷徨う者には、内に《二重の存在 /dual existence》を秘匿している。逃れられる者はなく、その術もなく、《彼女》もまた例外ではなかった——
 
 その手稿には様々なことが書かれている。書簡と学術文献の引用、植物の写生、機械の図面、悪魔的症例等の覚書、吸魔との遭遇の記録、その分類と考察、及び懸念、信仰——そして苦悩についての告白。手稿の持ち主は多分に知識を持つ者であり、その内容から旧世界の聖職者であることがわかる。
 手稿は全十巻構成と推測されるが、我々が各地で回収し、保存できた物はわずか四巻のみである。記述に用いた言語は古くかつ複数にまたぎ、難解な言い回しが多く、著者独自の暗号で記した項もあるため一般的に解読は容易ではない。最終巻を含む四巻を通して見るに著者の霊的知識と見解は驚くべき内容であった。とりわけ、吸魔に対する考察は頻繁に行われその知識を深めているようだった。
 最も興味深いことは、四巻全てにある人物が登場することだが、これを記述した人間は一貫して《彼女》としか表記していない。どうやら《彼女》には真実の名が存在せず、それゆえか、手稿の持ち主は個人的な親しみを込めて呼ぶことを差し控えたようだった。
 以下の文は、手稿最終巻の、当該事件についての詳細を抜粋したものである。万人にとってはこの計り知れない邪悪さとささやかな神秘性に、奔放な空想力、あるいは寝具の中で一夜に見た夢のように感じられるに違いない。けれども我々は彼のような率直な人間の常識と信仰を何ら疑うものではないし、仮に気まぐれに見た夢だとしてもこのような形で魂の善悪を問われるとは、悪夢のような話である。
 
 
 
 一七——年、——月——日。
 私の旧い友、ドルトン氏が病に倒れた。私がこの書物を書いている六年の間に、病魔は彼の身体をすみずみと蝕んでいたらしかった。寝室で夫人に案内された時には、彼は天蓋付きベッドから起き上がることもできず、かぼそい呼吸を精一杯繰り返すことで生命の糸をつないでいた。顔色は青白く、うなされるように表情はこわばり、胸の上で手を組んでいるドルトン氏の様子は、六年の歳月を思わずにはいられなかった。
 寝室には教区司祭と医師が希望のない顔で同席しており、司祭の方が私に近寄って言った。「ドルトン氏がどうしてもあなたに来て欲しいと、うわ言を繰り返しておりましてね。昨日までは意識があったのですが——。」
「神父さま、せめて最期に、夫に秘蹟を授けてくださいませんか?」ベッドのそばで跪いていた夫人が私を見上げた。「我が夫の——罪人(つみびと)の魂をお救いください。あなたなら、なにもかもをご存知のはずです」そう言った夫人の頬には、額からたれた茶色い髪がかかっていて、その顔は長い看病で疲れていた。夫人は夫の病だけでなく孤独とも共に暮らしていたにちがいない。夫妻の一人娘はこの場にいなかった。
 はたして私が、彼女の願う役目にふさわしいのかはわからない。けれども、私はただ黙って頷き引き受けた。カトリック教会の神父であるなら、臨終の際の信徒に終油の秘跡を行わないわけにはいかず、まして、友の夫人の願いであるならなおさらであった。
 召使い全員が跪き、教区司祭の立ち合いのもとで私は祈りを捧げた。しかし、ドルトン氏に聖油を授け、臨終の聖体拝領のためにパン(ホスチア)を与えようとした時、突如として意識のなかった彼が目を開き私の腕を強く掴んだ——私は驚きのあまり聖体を取り落とし、寝室にいた者は、あっと息を呑んだ。ドルトン氏は恐怖に引きつった顔で私を見て、唇を震わせて言った。「例の——件を——早く、教会へ——。」その両目は血走り、呼吸は獣のように荒れていた。
 私がその細くなった手を掴み、罪は許された、後のことは全て私に任せるようにというと、彼は全身の力を緩め、ゆっくりとまぶたを閉じた。それが彼の最期だった。医師が彼の死を確かめると、夫人はベッドにしがみついて、見ていて哀れみを覚えるほどむせび泣いた。召使いの中でも年の若い者は涙をこぼし、寝室は堪えがたい悲しみに包まれた。私は夫妻をしばらくそうさせておくために、いや、実際のところ私自身の高ぶる感情を抑えるために、儀式を中断し、窓の外を静かに見下ろした。屋敷の庭ではドルトン家の紋章にも描かれている日々花が咲いていたが、そのほとんどは枯れかけ、羽虫が飛び交っているようだった。
 ドルトン氏の魂に救いがあらんことを——彼は最期まで苦しんでいた。自己の生命が止まる危機に瀕し、頭の中に占めていた罪の意識が現実まであふれだした。それが、例の件! この六年、一切の口を閉ざし、私を遠ざけ、岩のようなかたくなさを見せた友は、例の件を教会へ告白せよと私に言い残し——こときれた!
 ドルトン氏の葬儀はその日のうちにおこなわれ、しめやかな葬列ののち、〈主よ、深き淵より汝を呼べり〉の詩とともに、棺は教会墓地に埋葬された。それから幾日か経つが、私は重責に耐えきれなかった。思い起こすだに恐ろしい記憶。《彼女》の悲しい結末。私がこの書物を書くにいたった重大な理由が、六年前の出来事にあった。長年、言葉にすることも厭うたけれども、いつかは明らかにしなければならないと弱々しく思っていた。だが、彼の遺言書を夫人から預かった今、その時が来たのだと意思を固め、我々の選択である、事の始まりをここに残しておきたい。私の身に不吉で忌まわしい何かが起きたとしても、真実は残されなければならず、また、この記憶をとどめた書を最終巻とし、過去の手稿ともども適切な場所へ置いておくが、ドルトン氏が死亡し、夫人が修道院に入った今となっては、当該事件の全ての責任はこの私D——が負うものとする。
 及ぶかぎりのことをうちあけたいと思う。その恐ろしく陰惨な事件が起きたのは、六年前の十月の終わりだった。匿名の報せを受けた私は急ぎ夜馬で駆けていた。月と星は暗黒に呑まれ、濃霧がからみついて視界も悪く、鬱蒼とした木々が横から迫ってくる、危険な道程だった。長い時間の疾走で馬の疲労も大きく、喉笛からは喘鳴が聞こえていたが、とにかく、ぐずぐずしている暇はなかった。遠くに見えていた黒い建物は近づくにつれますますと大きくなり、私の前にそびえたつようにあらわれた。
 そうして、私は山間の大聖堂に辿り着いた。混乱を極めていた。松明を掲げた群衆が聖堂の正面橋に集まっていた。怒りに震える若い男、怨嗟の声を上げる老女、恐怖に慄く中年の女——騒ぎ立てる街人たち。知っている者もいた。その場にいる人の数だけ感情が押し寄せ、とぐろをまいているようだった。しかし、闇の中に浮かび上がる壮麗なゴシック建築は、樫の大扉を重く閉ざし、この世から隔絶された存在のように集団を見下ろしていた。あたりで無数の蝙蝠が飛び交い、身の毛もよだつほど鳴き喚いていたが、暗闇の使いとはいえ、聖堂の中までは侵せないようだった。
 私は馬にまたがったまま橋を渡った。乱暴に人をかき分けたので悲鳴が上がったが、それが混乱した群衆の中に飛びこむ唯一の方法だった。大扉の前で馬を止めて首を巡らすと、馬は燃え盛る松明に苛立ちをあらわにし、大きくいななき、後ろ足を蹴った。
 私は馬から降りたち、外套を脱ぎ去って、隣街に滞在する神父であることと名を名乗り、聖堂の中にいる人物に重大な要がある旨を叫んだ。街人たちは奇怪な目で私を見て、口々に叫びかえした。曰く、私は大罪人であり、悪魔の手先となって堕落したのだと。しばしの間、彼らと言い合いになった。群衆の激しい憎悪と悪罵を身にあびて、その怒りの深さを知った。街の数多の失踪と怪死事件の犠牲となった身内や親しき者たちが集結しているのだから当然のことだった。話し合うことなど不可能と見た私は、にじり寄る群衆に背を向け、大扉を激しく叩いた。R——の神父D——だ、ここを開けたまえと。そこで短くも長い時を過ごし、かくして私の願いは聞き届けられる。扉が小さく開くと同時に群衆は殺到したものの、興奮した馬が暴れて彼らを怯ませたことが幸いし、私は誰にも邪魔されることなく、転がるように聖堂に入ったのである。
 私はそこで見たものに血の気がひくのを感じた。蝋燭の薄明りに照らされた長い身廊では二十名ばかりの人間が立ち鋭い目を光らせていた。街人とは一線を画した風体の男たち、狩人(ハンター)だ。短銃と剣を武装した彼らは大聖堂には似つかわしくない存在だった。扉を開けたのもそのうちの一人で、私を睨みつけていた。
 身廊のつきあたりの主祭壇前には、教区司教を中心に司祭と信徒たち——信徒は二階席にもいた——、治安監督官、裁判官を始めとした街の役人が並び、中にはドルトン氏もいたが、彼らは、天井から吊り下げられた大十字架の、神の御前に差し出された一人の女を見下ろしていた。
 なんたることだ——それが《彼女》だった。長く艶やかだった黒髪は無造作に切られ、後ろ髪だけが羊飼いの少年のように短く乱れていた。上衣のドレスはない。靴さえなかった。上質の白く長い肌着に白いコルセットだけを身につけた《彼女》は、盛った灰の上で跪き、祭壇の前で祈るように両手を合わせ、うつむいているように見えた。しかしそれは絶対に起こりえないことだった。《彼女》の後ろでは、鉄の仮面を被った男が抜き身の長剣をたずさえていた。
 私は身廊を半分ほど進んで《彼女》のもとまで行こうとしたが、途中で二人の狩人に阻まれ、屈強な体にぶつかった。そこまで来てわかったのだが、《彼女》は両手を聖釘(せいてい)で貫かれて、意志に反して先ほどの姿勢をとっていたということだった。目には布が覆われ、体は荊棘(いばら)を編んだもので縛られていた。後ろ髪が切られたのは首を切り落としやすくするためだ。
 つまるところ、私は《彼女》の斬首の場に飛び込んだのだった。
 
「神父、証人になりに来たのか?」司教が訝しげに言った。「悪魔を完全に打ち滅ぼしたことをその目に焼きつけるために、ここへ?」
 私は指先が震えるのを感じ、手を握りしめた。司教は(ミトラ)をかぶり杖をつき、金刺繍の入った上衣を着ていて、私を厳しい目で見ていた。「バチカンへの報告を怠ったな、神父」
 私はこの事態をどうにかせねばと考えていた。「謝罪の言葉もありません、司教殿。ですが、私の言い分を聞いていただきたいのです。それにこの聖堂は血を流す場にふさわしくない……」
「もう三人が死んだ!」と役人の一人が腹を立てて言った。「この飢えた獣をとどめておくだけであと何人を犠牲にすればいい? 見よ、十字架の前では顔もあげられず、聖人の遺灰の上では身動きも取れないではないか——」
 私は狩人の肩から顔を突き出して、ドルトン氏に向けて言った。
「しかし、吸血鬼たちを滅ぼしたのは、確かに《彼女》だ。そうではなかったか?」
 ドルトン氏は失望したように首を振った。「何も聞いておらんのだな、神父。その女は、私の娘を殺すためにやって来たのだ。そしてマルヴァナム伯爵は死んだ。《彼女》がやった」
「馬鹿な!」
 私は雷に体を打たれたようにその場で立ち尽くした。
 伯爵が、死んだ? 《彼女》がカトリナを狙う? その話をそのまま受け取るのならば、カトリナは今や未亡人となり、しかも一人の身体ではなかった。
 混乱で言葉を失っていると、聖堂の二階にある信徒席から女性の声が高らかに降り注いだ。
「神父さま、目を覚ますのはあなたの方です! お父様が言ったことは全て真実です。その悪魔は、私の夫を……」手すりから身を乗り出すようにしていたが、感情がこみ上げ、言葉にならないようだった。そばにいたドルトン氏の奥方がカトリナの肩を優しく支えるのが見えた。「この場に伯爵がいればなんと申したでしょうか」と奥方が言った。
 マルヴァナム伯爵夫人は涙を拭い、手を腹部に当てた。そう、彼女は身重だった。ふくらんだドレスの上で、日々花とハチドリをかけ合わせた意匠の指輪が鈍く光っていた。
 そこで《彼女》が初めて動き、ほんのわずかにカトリナの声の方へ顔を向けたが、どのみちそれ以上はやりようがないように思われた。私は強情を張って自分の主張を通した。
「……《彼女》は意味もなく人を殺したりはしない。それは絶対のことで、何故なら、」
「吸血鬼だぞ、神父!」
 司教が叱りつけ、杖で石床を突いた。「ただの吸血鬼ではない——古い血族の生き残りが、目の前にいる! わからないのか? その女は、普通ではないのだ! 今やらねば二度と機会は巡ってこない。放っておけば、我々は恐ろしい結末を迎える——《死者の聖域》だ」
 司教は視線をやって、頷いた。《彼女》の近くにいた狩人が拘束の縄を強くひくと、《彼女》の頭ががくっと揺れて上を向いた。その時、荊棘の口枷を噛んでいた鋭利な牙が燭台の灯りに浮かび上がり、《彼女》の黒い影は床で輪郭を際立たせていた。私は目の前にいる二人を押し退けようとしたが、どだい体格に差があったため、びくともしなかった。子供が大人に向かって暴れるようなもので、私の静止の叫びは虚しく響いていた。
 執行人が剣を真横に振りかぶった。
 裁判官が有罪を言い渡し、司教が続けて言った。「伯爵のいう、彼の者の居場所を知ることができなかったが、やむを得まい。最期に、魂の希望を求め、父と子と聖霊の御名と共に静かに祈りたまえ」
 私は何事かをずっと叫んでいたが、その時、場の空気に奇妙なものを感じて動きを止めた。それは聖堂にいた全員が同じだったようで、誰も動いておらず、どこか甘く、ねじれたような感覚に支配されていた。
 聖堂の中で、かすかに聞こえていた。子供が好む、何かの歌だった。誰もがそれを聞いていた。
 ——スカーバラフェアに行くの? その人によろしく言って、かつて私の本当の恋人だった。
 《彼女》が、歌っていた。口枷をはめているほうではなかった。
 狩人が恐れたように口走ったのが聞こえた。影だ、と。
「その首を落とせ!」
 司教が叫ぶと同時に聖堂内に異変が起こった。月光によってできた大十字架の影が不自然に伸びあがり、床と《彼女》と処刑人たちの上に、巨大な逆さまの十字のシルエットが落ちた。その後の光景の全てが、今でも信じがたい——何もかもがまたたくような間で過ぎ去ったのだ。横に一閃をふるった処刑人と灰の上に倒れる《彼女》。だが、誰もがその時、疑問に思った。何故、《彼女》は私たちの側に顔を向けているのか? 何故、処刑人は鉄仮面を押さえ、身悶えして叫んでいるのか? 
 拘束の荊棘(いばら)は燃えて灰になっていた。聖釘(せいてい)は灰の上に落ちていた。遅れてわかったことは、《彼女》は斬首の剣を仰向けに倒れてそれをかいくぐり、足の指で釘を持ち、長い脚を起こして背後に立つ処刑人の眼窩へと、正確無比に捻じこんだということだった。そのまま後ろ側へ宙返りするように起き上がった。縄を掴んでいた狩人は無力といっていいほど呆然としていた。
「殺せ!」
 狩人たちが短銃で吸血鬼を次々と狙い撃っていた。火薬が断続的に爆ぜるなか、私は頭が麻痺したような状態で床に身を伏せ、信徒席の間まで這って移動した。一体何が起こっているのか? 《彼女》は驚嘆するような軽やかな身のこなしで宙を捻りながら飛んでいた。
 ——短銃とはいったが、それは吸血鬼を狩るために風変わりな形状をしていたし、銃身が複数あるものや口が開いている銃を彼らは用いて、一発の威力を増していたはずだ。けれども銀の弾は一つも当たっていないようだった。
 何故なら——ああ、何故なら、逆さまの十字架の影から、無数の蝙蝠と、巨大な黒衣の人影が、まるで闇の底から姿を現すように立ち上がり、《彼女》の代わりに銃弾を受けていたからだ。
 混乱と恐怖がその影からもたらされているのは明らかであり、私はあまりの恐ろしさから思わず胸元の十字架を掴んで神にすがった。巨影は大十字架のもとまで届きそうなほどの背を持っていたが、病人のように背中を丸め、ローブのような羽織ものを着ていた。二つのゆがんだ目が赤く燃え、何より際立っていたのが、その長い腕が片方しかないことだった。
 その巨影が片腕を背後に振った。何かが投げられたように見えた。《彼女》は身を捻った跳躍と同時にそれを受け取り、空中で抜き放つと、片刃の反った刀身がぎらりと月光を反射した。目の覆い布は風になびいて床に落ち、寒気を覚えるような深く青い双眸が巨影を見ていた。誰が口ずさんでいるかもわからない甘い囁きがずっと続いていた。
 ——スカーバラフェアに行くの……その人によろしく言って……かつて本当の恋人だった……私の……私の……。
「うたって」優しい声が降りてきた。
 
 MAAIINNEEEEE!(        )
 
 邪悪な黒い影が咆哮し、右腕を横にひと凪ぎした。聖堂のステンドグラスが次々に破壊され、尖った星が中に落ちてきた。それが腕を振り上げるだけで天井が薄布を破いたように裂けた。
 壮絶な殺戮が始まった。地に降り立った《彼女》は狩人に向きを変え、走り込み、姿を消した。無数の、そして広範囲に渡る怒涛の殺戮剣が次々と繰り出され、いたるところで血煙が吹き上がった。
 巨影が叫びながら、片腕で人をなぎ払い、握りつぶし、叩きのめした。《彼女》がその腕を飛び越え、狩人の肩に膝から飛びつき、そのまま地面まで押し倒し、足で首の骨を捻り折った。
 巨影は右舷の二階席をバリバリと剥ぎ取り、信徒が何人もそこから落下した。
 《彼女》はそこから落ちてきた短銃を掴んで、出口へ向けて逃げようとする役人たちの背中を、先ほど殺したものにまたがったまま振り向きもせずに撃ち抜いた。
 おぞましい光景だった。地獄のような、ではない。
 聖堂は地獄そのものだった。
 《彼女》とは、なんなのだ。私が知る《彼女》とは一体、何だったのだ。彼らの言う通り、獣同然ということなのか……そんなものに手を貸していたのか——私は震えながら信徒席から這い出し、血の海に沈む狩人の亡骸のそばから短剣を掴み、できる限り急いで主祭壇へと向かった。
 《彼女》が歩いてやってきた。最後の狩人は《彼女》と切りあったあとに倒れてしまったようだった。白い衣服は血に染まり、野蛮な真紅の色に染まっていた。《彼女》の青い瞳は爛々と輝き、その口は美しくもあざ笑っていた。その背後の木片と化した信徒席では、黒衣の影が鋭い爪のついた腕をだらりとたらして不気味に佇んでいた。
 司教は祭壇の前で恐怖に打ちのめされ、立ち尽くしていた。肺を患ったもののように、ぜいぜいと息を切らして言った。「悪なる者……」
 ドルトン氏がその肩を掴み、慄いた顔を青白くしていた。二階席からカトリナと夫人の悲鳴が聞こえた。
吸血鬼(ヴァンパイア)!」私は十字架の紐を首から引きちぎり、それと一緒に短剣を向けた。《彼女》は足を止めた。冷たい青い目が私を見据えていた。
「やめろ。もうやめてくれ」私はそれ以上に何を言えばいいのかわからなかった。「罪を犯すな」
 《彼女》は眉根を寄せ、私に答えるべく口を開いた。だが返答はなかった。突然、《彼女》が背後を振り返えるのと同時、きらめく薔薇窓を突き破って何かが聖堂に降り立ったせいだ。
 その堂々たる姿、一体誰が彼を遣わしただろうか?
 たける馬にまたがった甲冑騎士が《彼女》を見下ろした。それは銀色の大兜をかぶり、サーコートはぼろぼろだが破れた生地から見える鎧ははるかに立派で、馬の方も防具を身につけており、人馬ともに奇妙に緑に輝く外套を纏っていた。馬の鼻から異様な冷気がたなびき、夜闇に消えていた。
「誓約を果たしに戻った」と騎士は言った。
 我々はその緑の騎士に圧倒されるばかりで物も言えなかったが、吸血鬼だけは違った。妖精騎士(エルフィンナイト)——? そう険しい顔で呟いていた。
 騎士が大剣を構えた。左には大盾を携え、馬とともに猛烈な勢いで突っ込んでいった。《彼女》は腰を落として戦う姿勢を見せ、もう私や司教、ドルトン氏などには目もくれず、その妖精騎士と対決せざるをえないようだった。騎士の馬術は見事としか言いようがなく、一つも乱れた様子もなく、速度をのせたまま身廊の中頃で高らかに跳躍して、吹き下ろす突風の勢いで吸血鬼の元へ一直線に飛びかかった。気合いの声を上げてふるった大剣は火花を散らして石床を傷つけたが、《彼女》の首までは斬り落とせなかった。《彼女》は片刃の刀剣でそれを防いだものの、相手の勢いにかなわず、態勢が崩れてしまった。床に膝をつく《彼女》——その二つの手に聖釘で穿(うが)たれた痕が赤黒く残っていた。
 私たちがその場で立ちすくんでいる前で、妖精騎士が吸血鬼の頭にめがけ大剣を振りおろした。しかし、黒衣の巨影が立ちはだかり、片腕で大剣を弾き返し、続けて騎士に襲いかかった。
 《彼女》がよろよろと身を起こし、騎士に刀を向けた。
 私は自分の意識を叩いて司教とドルトン氏に駆け寄った。今のうちに逃げるように言うつもりだったが、どうにも様子がおかしく、当の司教は主祭壇で目玉を飛び出さんばかりに見開いて前方を凝視し、苦しみの声を上げて身悶えしていた。ドルトン氏が慌てて司教の肩を揺さぶって正気に戻そうとしていた。司教は杖を捨てて胸をかきむしり、溺れた者のように足をばたつかせていた。
「何が起こったんです!」私がドルトン氏に問いただしている間にも、みるみると司教の唇が紫色に変色していった。「わからない。息をしていない!」とドルトン氏は言った。司教は死の淵に沈められようとしていた。高齢で、肥満である彼は、ショック状態に陥っているのではないかと思われた。ドルトン氏に暴れる司教の腕を抑えさえて、急いで心音を確かめた。ほとんど聞こえないことに私は焦りを覚え、両拳で司教の胸を何度も強くたたきつけた。意味を成すことでなかった。司教は次第に顔を硬直させ、そのまま彼は腕をだらりと落とし、二度と動かなくなってしまった。
「死んだ……司教殿が死んだ!」ドルトン氏がうめいた。私たちはもはや成すすべなく、茫然自失として司教の亡骸を見下ろすしかなかった。しかし、現実に引き戻してくれたのはドルトン氏だった。必死な形相で私の司祭服を強く握り、「神父、私の友よ、どうか妻と娘を逃がしてやってくれ」
 お・お・お・お——!
 大聖堂が揺れた。黒衣の巨影が妖精騎士を馬もろとも掴み上げ、大腕を振って壁に叩きつけた。大聖堂の外は崖だ。妖精騎士は壁を突き破り、暗い谷底に転落していった。だが驚くべきことに、落ちる寸前に投げられた騎士の大剣が宙を裂き、天井から釣り下げられている大十字架の鎖を断ち切っていた。大十字架は落ち、その真下にいた巨影の体を深く貫いた。
 死者の眠りをも妨げるような叫びが轟いた。
 ドルトン氏が私を揺さぶった。「たのむ!」
 二階席では奥方とカトリナがお互いに抱きあい硬直していた。外では怒りと恐怖で混沌としていた街人が、大聖堂に火を投げつけていた。私はドルトン氏を残し、立ち上がって妻子のもとへ走った。その去り際、崩れゆく影が二階を指さし、その腕が消えるか消えないかの瞬間、《彼女》がそれを足場にして軽々と飛び上がるのが見えた。何かを切り裂く音と、妻子の悲鳴が聞こえた。
 私が二階にたどり着いた時、ずるずると手すりにもたれかかるカトリナを守るべく、前に飛び出すドルトン夫人の姿が見えた。《彼女》が冷ややかにそれを見下ろし、静かに口を開いた。私は背後から彼らに近づこうとした。
「……悪魔との姦淫は有罪ですよ、伯爵夫人?」
 悪魔。聞き間違いでなく、《彼女》は確かにそう言った。ドルトン夫人が息を呑んだ。
「残念ながら、司教以下三十二名の狩人と信徒は悪魔の誘惑に屈服していたようです。司教殿は不運にも血の性質が合わなかったため私の手にかかる前に死んでしまったけれど、これで永遠に開放されることでしょう」
「あなたは何を言っているの?」ドルトン夫人が娘を抱きしめたまま、気丈にも吸血鬼に言い返した。「人殺し——恥を知りなさい! むごいことも平気でやってのける。あなたは、呪われた落とし子です。可哀そうなひと! 神ですらもお見捨てになるでしょうね」
 しかし、《彼女》の心にはなんの言葉も響いていなかった。
「はっきりと申し上げるわ、ドルトン夫人。吸血鬼に魅了された人間は吸血鬼の死後も永続するということよ。死者の奴隷を解放するには死しかありえない。そして伯爵夫人はとても罪深いということ」
「罪……? そんなもの、あるはずがないでしょう! 罪深いのはあなたです。人間のふりをして私たちに近づいた。地獄に落ちなさい……」
 《彼女》は何もかもを許すように首を振った。子供に言い聞かせるような……昔からああいう態度をするひとだった。「顔色が悪いわね、カトリナ。ご両親にはきちんとおっしゃった方がいいのではなくて?」
 カトリナは母親の腕の中でがたがたと震えていた。尋常でない怯え方をしていたためドルトン夫人も奇妙に思っているようだった。
 吸血鬼は刀の切っ先を反対側の指の腹で撫でた。
「あなたのためにとても手間をかけたの。私は無意味なことをしない。こと、血族を狩ることに関しては……。哀れなカトリナは必ず私の無様な姿を見物しに来るに決まっている」
「どういうことなの、カトリナ? 一体何があったの?」ドルトン夫人は涙声で娘をゆすった。薄々と気付いているのかもしれなかった。
「あなたは」とカトリナは唾を飲み込んだ。「あなたは、私に嫉妬しているんだわ……。命を繋ぐことができない宿命だから……」
 吸血鬼は喉の奥で相槌をうった。「面白い考えね」と平坦な口調で言った。
「今度は私の意見を聞いていただける?」
 吸血鬼はゆったりとした足取りで妻子に近寄った。
「駄目!」カトリナが悲鳴を上げたが、《彼女》は残酷にも真実を言った。「つまりね、あなたの夫、マルヴァナム伯爵は私の同胞たる吸血鬼だったのよ」
 さっと空気が凍りついた。《彼女》の言うことが正しいとすれば、カトリナは吸血鬼の子を身籠っている。ドルトン夫人は顔を蒼白にして全身から力を抜いた。
「お母さま、どうか私の言葉だけを信じて……」とカトリナは懇願したが、《彼女》は追い打ちをかけた。
「マルヴァナムが吸血鬼であることを隠すのにあと二週間はかかるでしょう? 違う?」
「そんな……葬儀の日取りが遅いのは疫病のせいとばかり……その子供は、吸血鬼の子だというの……」カトリナは母の手を取ろうとしたが振り払われた。それでも母の手を追いかけて「違うの、お母さま、違うの。何も悪いことはしていないの」と慈悲にすがった。
「悪魔の子——ああ、神よ……どうしてこんなことが……」ドルトン夫人は無意識の呟きを発し、そのままショックのあまり気を失ってしまった。敬虔深いキリスト教徒の娘が起こした、最悪の裏切りだった。
「お気の毒さま」と《彼女》は心無いことを言った。カトリナは、きっ、と相手を睨みつけ、「吸血鬼(ヴァンパイア)……!」憤怒の形相で剣を持って立ち上がった。
「あなたは、私の夫を殺害した上に、私の子供まで奪うというのね……」
「ええ、まあ。言いにくいけど」
 《彼女》が刀を水平に構えると、青い光が刀身を舐めた。
「安心して、カトリナ。あなたは無事に家に帰って、この先何もなかったかのように過ごせるわ。でなければ私が教会に秘匿したりなんかしないでしょう?」
「それは、どういう……?」
「内部の繋がりを断つ。最小限の苦痛で」
「渡さない! 来ないで!」
「人間のあなたは見逃すわ。でも、吸血鬼とその子供は——殺す」
 鋭く切り込んだ。月光が閃き、金属が激しく打ち合った。
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「そうよ、《ハートレス》、邪魔をしてはいけないわ……」
 かっと《彼女》の青い目が見開かれて、動きが止まった。時間すらも止まったように感じた。
 その体はとても冷たかった。極寒に佇む異国の彫像が肉を持ち、声を発する。《彼女》とはそういうものだった。だが何故だろうか、その血潮はどこか温かく感じた。私を振り仰ぐ《彼女》の双眸は驚きに見開かれ、次の瞬間には失望で歪み、最後に安堵したように伏せられた。《彼女》は背中に短剣を突き刺したまま、軽い音を立てて床に倒れた。そうして、もはやぴくりとも動かなくなった。
 私はただ黙って、横たわる《吸血鬼》を見下ろした。燃え盛る炎が爆ぜる音と街人たちの怒りの声がどこか遠くに聞こえ、大聖堂には静寂がもたらされているように感じた。吸血鬼の体を貫いた短剣の柄には十字架のネックレスがからみつき、ぽたりぽたりと血が滴り落ちていた。
 私はどうすべきだったのか、今でも思い悩むし、その出来事は悪夢の中で私を苦しめる。伯爵夫人が吸血鬼と婚礼を上げ、悪魔の子を身籠っていた。それは教会としては決して許されないことで、もし明るみになればカトリナとドルトン家の命運も尽きてしまうだろう。
 だが、生まれる前から死すべき存在だとどうしてわかるのか? 生まれながら邪悪であると誰が保障できる? はたしてその子供に罪はあるのか?
 私は《彼女》を抱き上げて伯爵夫人に歩み寄った。カトリナは無傷で、その場で硬直していた。自分の身と我が子を守るために抜いた細剣は折れ、それを前方に突き出したまま……。達人のような正確な太刀筋が、吸血鬼の致命の一撃を無に帰したのだった。商家の娘であるカトリナにそのようなことができたのは、何かの偶然が作用したのだとその時は思うほかはなかった。それにしてもあの美しい声……あれはカトリナが……?
 カトリナは遅れて脱力して、よろめき、剣を持ったまま信徒席にしなだれかかった。
「神父さま……あなたが私を助けてくださるの……?」
 私は黙って腕の中を見下ろした。《彼女》は穏やかな顔で眠っていた。
「伯爵夫人。夫妻を連れて、地下から大聖堂を出て東へ行きなさい。私の友人がじきにやってきてあなたを見つける」
 カトリナは涙をこらえきれなかった。「ごめんなさい、神父さま……こんなことになるなんて……。我が夫が教会の人間まで傀儡するなどと、知らなかったのです。私は、子供は、裁かれるのでしょうか……? 主はお怒りなのでしょうか……」
 信徒席で顔を覆い、嗚咽をもらす彼女は子供のころを思い出させた。幼い時分の彼女はよく私のところに来て泣きながら自分の罪を謝っていた。
「カトリナ、あなたは吸血鬼と人の子を育てようとしている。私は誰も裁かない。しかし、もし、神の許しが欲しいというのなら、その子に暗闇の道を歩ませぬことです。約束してくれますか、カトリナ。絶対に人を襲わせないと。決して、何があろうとも」
 カトリナは涙で濡れた顔で何度もうなずいた。
 私は《彼女》を連れてその場を去ろとしたが、背中にかけられた言葉が虚しく届いていた。「神父さま……私は、神に付き従うものとして、その栄光を信じるものとして、誓って言います——私は神を愛しています。ですが、それ以上に、あの方を、愛してしまったのです……」
 
 このようにして、忌まわしい地となった大聖堂は焼け落ち、司教の亡骸も、狩人たちの血の惨劇も、《彼女》の刀も、栄光の十字架も、何もかもが灰になってしまった。生き残った私とドルトン氏と夫人はカトリナとその子供について教会から隠すこととし、我々はこの件について二度と語ることはなかった。
 そして私は《彼女》を誰も知らない遠い所へ連れていき、誰からも見えない場所に安置した。《彼女》には長い眠りが必要だった。狩りも憎しみも忘れてしまうくらいの、血の河を歩んだ時間と等しい、気の遠くなるような長い眠りが……。
 それから何年も過ぎ、その間に私は自分の為すべきことに取りかかった。優秀な狩人だった《彼女》に代わって、これまで得た吸魔たちの知識を他の者に託す必要があると思った。それが私なりの贖罪だった。しかし邪悪な知識は誰にでも読めるものであってはいけないと私は考えた。
 私は一つの場所にとどまらず、信仰によって道を照らし、各地を渡り歩いた。私は土地に根付く様々な話を聞いた。奇跡と死が縄のように絡まり、連綿とつづいていく、そんな話だ。私は土地の人間たちが話す奇妙な噂を聞いた。初めはたわいのないことだと思っていたが、それが石を積み重ねるように増えていき、しだいに当たり前のようになっていくことにうすら寒いものを感じるようになった。曰く、隣村で子供が羊膜をかぶって生まれるようになり、その数が増えているという。
 吸血鬼よ! もしこの手稿を読んでいたら、どうか私の言葉に耳を傾けよ。私は、きみに……
 
 

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【2020/09/16 掲載】

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