縦横切り替え

  百年に一度の恐ろしい嵐が過ぎて早二週間が経悪夢のような有様だ街のあらゆる場所が一七〇三年のグレ丨トスト丨ムもかくやという惨劇に見舞われていた屋根が吹き飛び石造りの壁は文字通りなぎ倒され海に近い街などは大変な有り様で多くの家々が紙のように潰れてしまたという大嵐が過ぎてから数日の間も高波は魔物のような大口で港を呑み込み続け近づくものは誰でもみな死を覚悟しなければならなか港に打ち寄せる波の高さは一軒の邸宅を呑み込むほどであるというのだから数百の商船が藻屑になてしまたのも無理からぬ話である 多くの市民が死んだが正確な死者の数は不明だ千とか二千とかそのような数字が人々の口の端にのぼるさらには無数の人々が家を失い路頭をあてどなく彷徨ている困難な時代に訪れたこの無慈悲な事態を一体どのようにして乗り越えればよいのかと人々はただただ呆然とするばかりであ 大嵐が過ぎてから二週間のあいだパトリシア・ロ丨ウンは開放した診療所を訪れる市民の治療に追われていた当然施設は彼女のものではなか間の悪いことに現在当該所有者は国外にいるため手伝いの身である彼女︱︱その件に関してドクタ丨・ワイアト・ブラクハウスはパトリシアを助手と呼ぶ︱︱が全てを受け持ていた訪れる人間の大概は大嵐によて直接被害を受けたというよりは事後の始末をしている最中に起こたあれやこれやで怪我を抱えていることが多か直接被害を受けたものは遺体となて運ばれてくるもはやどこの死体安置所も満杯であり診療所を兼ねているブラクハウス邸が受け入れ先になるのも時間の問題であ邸に務める家政婦や使用人たちはよく働いてくれた数々の手際のよい手配によりパトリシアは敷地から多くの棺が運ばれていくのを目に涙を浮かべている家政婦たちとと
もに見送ることになる このように街は惨憺たる事態に瀕していたがパトリシアは同時に確信していた遅かれ早かれ必ずや英国市民は以前のような活力を取り戻すであろうお互いに慰め肩を抱き合た時のぬくもりはなにものにも代えがたいものだたく先日の嵐は災難なことだたなエドワ丨ド・トマス・ライムリク卿がパトリシアに目を向けて言見たかねあの高波をさすがの我が家もあのような波に晒されては一日も持つまいよくぞウストミンスタ丨橋が無事だたものだ 甥のロバ丨トの言うことには隣の街では船が二十キロ先の土地で見つかたとか洪水に呑まれて溺死した人間が河に浮いておたとか恐ろしいことが起こているそうだライムリ卿はシルバ丨グレイのふさふさした髭をつかみ物憂げな顔をしたしばらくの間ロンドンは混沌としておるだろうな教会がなんと言うつもりか今からでも頭に思い浮かぶようだよあなたも大変だたでしパトリシアライムリク卿の娘セシルはパトリシアの隣で気遣わしげな顔をしていた私にもできることがあればなんでも言てちうだいね力になりたい彼女の夫が海軍に勤めていることを考えればなんと気丈な振る舞いであろうか パトリシアはセイロンテ丨の豊かな香りのする陶磁のカプを置いた働き詰めでヘトヘトな身体には一番の滋養だありがとうシシ丨さしあたりの問題はあなたのお父様がすべて見てくださているから大丈夫よ本当に感謝していますライムク卿今日パトリシアがライムリク邸を訪れたのは診療所で不足している医療器材や物資の援助を求めるためであ色良い返事が聞けて彼女はひとまず安心していた 彼はうむとパイプ煙草を一吹かしたことがあれば包み
隠さず教えなさいパトリシア診療所の土地は半分は私のものなのだから何もかもの面倒を見るのが当然と言えるセシル無理強いをしてはいけない今のブラクハウス邸はとてもではないがお前の手に負えるものではないよでもセシルは一心にパトリシアを見つめるので彼女はセシルの手を取り優しく微笑んだせめて診療所に来て患者さんに優しくお声をかけてくれる 〝レデ〟・セシルが来てくれれとみんな傷ついた心が癒されるでし高貴なる人が見捨てないでいてくれると励みになるわセシルはゆくり頷いて了承したライムリク卿がひそり眉を片方上げたが別段反対の意は唱えなかたので親子揃て診療所を訪問する日が近いかもしれないとパトリシアは思それはそうと軍からは何か連絡がありましたのまだだよパトリシアライムリク卿しかし航海に出たとはいえ三週間も前だ今は大陸に駐留しているはずだ万一の心配もあるが問題ないと思うよ嵐の外にいたのは確実だろうライムリク卿は椅子に深く座りぱちりぱちりと火の粉が爆ぜ赤く燃えている暖炉を見つめたその目が再び彼女に向けられるおおそうだパトリシアワイアト・ブラクハウスはどうているんだね たくあの男は肝心要な時に不在とはそれにここ最近とんと顔を見せないではないかての通りかの紳士はちと変わたところがあるからね定期的に近況を聞いてやらねば最後に耳に入る話は葬儀の知らせになるだろうさ セシルはライムリク卿の親しみのある不躾な物言いにまあと目を丸くしたがパトリシアは気にならなかドクタ丨はフランスに出ているんですほうフランスに学術的な集まりかねいいえ古い友人のもとを訪ねているんです
どういたご用件なのセシル人狼の研究と伺ているわ︱︱人狼ライムリク卿とセシルは紅茶を数滴プから跳ねさせとび上がる勢いで聞き返した昔から変わり者だとは思ていたがやつめ狂人の相手ばかりをしたせいに違いないわしは前から言ておただろう精神の病は伝染するのだ パトリシアは困たように言ドクタ丨はライムリク卿がそう仰るのを聞きたかただけですご友人は動物由来の感染症を診るお医者様です思うにただの狂犬病患者の診察に立ち会うだけでし今朝電報が入りましたので彼の心配はいりません 親子は揃て椅子に沈んだたくブラクハウスの酔狂に付き合ていたらおちおち紅茶もゆくり飲めまいよライムク卿は人を呼んで新しい紅茶を用意させたややもすると使用人は再び部屋に戻り新しいテ丨セトを一式並べ始めた磁器がカチカチと鳴る音に耳をすませているといつのまに入きたか定かでない毛の長い真白な猫が優雅な様子でするりと安楽椅子に登てきた猫は甘えた様子でパトリシアの膝に前脚をかけ大きな宝石のような緑の瞳で彼女を見上げ丨カプをつかむ指のあたりをすんすんと嗅ぎ始めた その間パトリシアは微動だにしなか視線を移すこともなそのうち彫像のように固まるパトリシアに興味が失せたのか猫はふいと首を返し彼女の膝から下りてパトリシアとセシルの間で雪玉のように丸くなどうかしたのパテセシルが訊いた今日は随分とブランシに冷たいじないあんなに可愛がてくれていたのにとセシルは猫の白い背中を撫でつけ不思議が猫は心地よさ
そうに喉を鳴らしている粗相でもあたかねとライムリク卿いいえただパトリシアは言葉に詰まここ数日本当に色々なことが起こああそうよ猫だわあの恐ろしい猫て変わて苦悶の顔をするパトリシアにセシルが姉のように気を遣実際彼女たちは幼少の頃から仲が良く血の繋がりもあてか姉妹同然であこれ今日はあちへお行き厨房に行ておやつでも貰てきなさい 白い猫を両手で掴んで寝椅子からおろしたものの︱︱元来猫とはそういうものだが︱︱そうは言われても今はここが気に入のだと言わんばかりに何度おろされても猫は寝椅子に登るしまいにはと牙を見せてセシルの扱いに抗議声明を発表したもうこのこたらいいのよシシ丨少し神経質になてるだけなのパトリシアは細い指で額を押さえたでもあなた今日はずと顔色がよくなくてよ患者さんにつききりのようだたから無理もないのだろうけれど︱︱それにしてもパテ気分がすぐれないのではなくて ブランデ丨はいかがセシルはあれやこれやと気を回してみるが最終的にはいつもこう言どうしてこんな時ブラクハウスさんはパテについてやらないのかしら パトリシアは曖昧な顔で首をふ大丈夫私の問題じいのただ嵐の夜はいろいろなことが起こるでし だから︱︱そこまで言二人が奇妙な顔でパトリシアを見つめていることに気がつき彼女は居心地が悪くな誤魔化すように言葉を続けるだからそうてどうしてこうあるのかしらて時々思う
まるで人の言うことを理解しているような素振りもするしても頑固だわ美術品のように優雅かと思えば次に見せるのは獣の姿ドクタ丨の仰る人間の二面性というものがと猫にもあるに違いないのよ一体何があたのかなライムリク卿が訊いた口髭を撫でつけわしの推理だと嵐の来る前と今のお前さんの態度から想像するにかの恐ろしい大嵐の夜に猫に関して考えを改めさせるような出来事でもあたかのようだ パトリシアはうつむき恥じるようにスカ丨トを揉んだライムリク卿には隠し事ができませんわねその通りですここは一つ事の次第を話してみてはどうかね お前さんがよければだがライムリク卿は続けてブラクハウスの帰りはずと先だと聞いておるが 一人で考え込むよりはずといいだろうと言セシルは身を乗り出し首を傾げて彼女の言葉を待いた パトリシアはこの好奇心旺盛な親子に向けて曖昧に微笑み︱︱二人はいつもドクタ丨・ブラクハウスの元へ舞い込む奇妙な症例について聞きたがた︱︱患者の個人的な事実の範囲外ならお話できますわと答えたうむでは聞こうかライムリク卿はパイプに煙草を詰め火をつけた   あの夜信じがたい強風がブラクハウス邸を揺らし木の窓枠は始終がたぴしがたぴしと異常な音を立てて住んでいる者たちを震えあがらせていたパトリシアは家主が不在の間の留守を預かており雨が破壊的に叩きつける屋根の下で燭台を片手に家中を歩き回て寝ずの晩をすごさなければならなか夜半になる
事態は悪化した大風で飛ばされてきたであろう太い枝が階のキチンに飛び込んできたのだ枝は雨戸と窓ガラスを突き破板床に刺さてしま雨水はみるみると窓からたれ込んできて砕けたガラスの上で洪水を作り旧約聖書に書かれる大洪水がごとく大変な事態になパトリシアは使用人に叫ぶように指示をとばし大急ぎで枝を切り落とさせ窓を塞ぎ床を掃除しついで他の窓も補強するように言いつけた彼らは青い顔をしながらもばたばたを駆け回りよく働いてくれたのだ そんなてんやわんやの大騒ぎだたのでブラクハウス邸の玄関扉を叩く音がしていたことにしばらく誰も気がつかなかおおい︱︱誰かいないのか 助けてくれ ここを開けてくれ吹き荒れる風と大雨の音にまぎれて弱々しい男の声が玄関からしたのでパトリシアと家政婦のマリ丨ウルはとび上がんな夜更けの︱︱しかも大嵐の夜に人が来るなんて家政婦は恐怖の表情を浮かべて震え上がおよしなさいミス・ロ丨 何か悪い物を呼び込んでしまうかもしれませんよ女は玄関に向かいかけたパトリシアの腕をしかりと掴み強い口調で言だけどお客様かもしれないわそれに助けを求めてるパトリシアは答えるワイアトの患者なら無視することなんてできませんそれにここに来る患者にちと変わた人が多いのはマリ丨ウルもご存じでしとどころではありません 百年に一度の大嵐ですよ家政婦は半ば叫んで言そういて一ヶ月前に刃物を振り回す男を招いてしまたことは忘れもしませんのよ わたくしは今でも夢に見るのです︱︱狂気に囚われた男の顔を あの時はセシル様の旦那様が偶然ご一緒していたからよかたものの今は男手が不足しているんですよ
大尉が頼りになることはあの時よくわかりましたでもこのまま放ておけばあの方大変なことになるわ 庭先で冷たくなていたらどうするの パトリシアと婦長がささやかに言い合ている間もごうごうと吹きすさぶ風は強くなる一方で男の呼びかけと頼りないノクは招かれざる幽鬼の訪問を思わせたとにかく紅茶の一杯でもお出ししてあげなくては先生がここにいればと同じ考えを言うに違いありません 背後で囁く家政婦の祈りの言葉に加護されながらパトリシアは玄関を開けたそこには痩せた男が哀れを誘うほどずぶ濡れの格好で立ていた白髪から落ちる水滴が目の中に入るのかしきりに瞬きを繰り返ししばらく髭を剃り忘れている顎からぽたぽたと水が落ちていた蒼白の顔には皺が深く︱︱その表情は何かに怯えているようだ突然の訪問をお許しくださいマダム男は歯の音が合わない南部訛りで挨拶した後何かぶつぶつと感謝の言葉を呟きながらだれ込むように家に入てきたマリ丨ウルが忙しく乾いた布を男に手渡し熱い紅茶を用意するためにキチンに引込んだ時彼はF︱︱だと名乗こちらはドクタ丨・ブラクハウスのお宅だと伺たのですが先生はどちらにパトリシアは驚いたFと言えば一時期ロンドン社交界の寵児といわれた人物で死と婚礼を挙げる花嫁苦悶する聖職者など巧みに油彩をあやつり死と聖域を描かせれば他に勝るものなしと言われていた男だだが放埒な社交場でもてはやされたのは金持ち向けの肖像画であることを知た彼は幾ばくかの作品を書いた後大衆の前から姿を消した生来の癇癪により衆目の場でワイングラスを叩き割ただの心労がたたり流感にかかてしま
ただのそんな噂が囁かれていた そのうちのどちらかはあながち嘘ではないのではないかしらパトリシアは思当時の飛ぶ鳥を落とすと言われていた勢いは今や見る影もなくFは落ちくぼんだ眼でおどおどと玄関を見回していた今宵の嵐による混乱かはたまた持病のせいだろうか︱︱とはいえその姿はまるで見知らぬ土地に連れていかれて混乱した猫のような挙動不審さであとかくその姿はこの診療所兼邸宅にたびたびやてくる神経症患者そのもののようであさあどうぞこちらへ パトリシアは男の肩を支えてよろよろと二階のブラクハウスの書斎へ連れて行き来客用の椅子に座らせたあとは暖炉に火をつけ部屋を暖めたドクタ丨・ブラクハウスに御用なのですねミスタ丨・Fはパトリシア・ロ丨ウンと申します正直に言おどろいてしまいました︱︱あなのことは知ているどころの話ではありませブラクハウスは特にあなたの絵を気に入ておりまして先ほど階段を上がた時にお気づきになたかと思いますがかの有名な一枚の複製画を所持しているんです 寒さで震えているFに乾いた真白なタオルを渡しですがこのような夜に訪ねていただいた手前大変申し訳無いのですが先生は今こちらにおりません所用でフランスに︱パトリシアが言い終わらないうちにFはそれでは困ると来客椅子から立ち上が あまりの大声に驚いてパトリシアは暖炉の前で火掻き棒を取り落したFの顔は今にも泣き出さんばかりになていた実年齢は若いはずなのだが白髪や顔の皺のせいで実際よりも年を取ているように見え何かちぐはぐした印象を受けたどうか落ち着いてくださいじきにマリ丨ウルが紅茶を持
まいりますからまずは身体を温めて その言葉通りミセス・マリ丨ウルが紅茶を持て書斎に入きた彼女はさきほどの不吉な心持ちをおくびにも出さずFに一瞥投げただけで静かに去パトリシアが湯気の立つ紅茶を勧めるとFは椅子に座り直して背中を丸めプを持つやいなや猫舌なのかふ丨ふ丨と湯気を吹き飛ばし舌を出して獣のようにぴぴちと飲み始めたパトリシアは内心ぎと引きつたが決して顔には出さなか しばらくしてFは落ち着いたらしく落ちくぼんだ目で彼女を見上げた先生はいつお戻りになるんでしうか三週間後に軋む窓を見ていたパトリシアがふり返るとFは目に見えて落胆していたですがドクタ丨・ブラクハウスの留守の間はわたくしがご用件を伺うことになているんです重大な用であれば電報を打て指示を仰ぐこともありますし必要なら安定剤と睡眠薬もお出しできますわ意外に思うかもしれませんがわたくしはこちらで助手を務めているんですああ︱︱そうか︱︱そうだたんですねそうしてもらえると本当にありがたいFはどもりながら言だがを言うと私は自分の置かれている状況をどう説明したらよいのかわからないのです信じられないことですがそうとしか言えませんただ色々なことを研究されている先生であればどうにかしてもらえるのではないかという一心でこちらに男は神経質な指先で瞼を押さえ口の中でぶつぶつと神にすがる言葉を呟いた パトリシアはしばらく間をおいてあなたの心はかなりご不幸に見舞われているようですねミスタどうか先生の︱︱いえご婦人のご同情をいただきたく参たの
ですそれほど悩んでおるのですとてつもなく厄介な悪意のあ何かがそこに迫ています一体どうしたらよいのでしうか私の身の上を聞けばと先生もミセス・ロ丨ウンも納得といわないでも多少のご理解はいただけると思います 正しくは〝ミセス〟ではないしかし精神を擦り切らせているFにあえてそれを訂正する気がおきなかたので放ておきパトリシアは書斎に座りいくつか質問してペンを走らせた患者︱︱F長期にわたる不眠を抱え動悸頭痛を起こして絶えず不安症に見舞われている Fは突然あのうこちらでは猫を飼ておいでですか扉を振り向いた見えない影に怯えているかのようだいいえおりませんパトリシアは答えたドクタ丨はそういた気まぐれな生き物を嫌ております Fはなにか思いつめてイライラしたようすで足を揺らしううんと唸たあとと言いにくいように口をつぐんだがやがて切り出したならば結構です不躾を申して申し訳ありませんなぜそんなことを尋ねたかというと私の心を悩ますのは他でもない︱︱猫なのです一匹のまだら模様の猫が Fが画家を生業としていることは先ほど言たがロンドン社交界から退いた後の話はこうである華やかな享楽にほとほと疲れはてた彼は体調を崩し顧客の言いつけ通りの絵を描くことが困難にてしまそこで肖像画はもとより彼の内に抱えるやや退廃的な感性とは一旦別れを告げるつもりで妻のサラと息子のハロルドの三人を連れ彼の生まれ故郷である郊外の美しい町に引したそうだ にれの枝が大きく広がてその緑の木立ちが道沿いに並び朝になるとつゆが薔薇をぬらし湖水のほとりには四季折々の花が咲き
あたかも童話の世界のような土地だたというFの言うことには自然のおりなす奇跡と生命力に改めて目を向け自身の目指すべきたく新しいものを模索するのにぴたりの場所だたそうだ妻は健康そのものであり子供はやと歩けるぐらいの年にないた一時期の多額の収入は充分に残ていたため一家が静かに暮らしていく分には問題はなか妻のサラは住み慣れた場所や友人たちから離れるのを悲しんでいたがひとときの仮住まいであることと彼の健康のことなどを踏まえてFの辛抱強い説得についに折れた越して数ヶ月もすればサラもハロルドも故郷の土地を気に入ていたという ある夏の中ごろFは習作がてら家の全景をキンバスに写そうと小高い丘にのぼて仕事道具を広げていたそばには立派な林檎の木が一本生えそれがいいあんばいに日陰を作りそよそよとした風が心地よい場所だ陽差しは傾きかけていたがしばらくすれば夕空に浮かぶ彼の家とその奥にある湖が茜色に染まばらしい景色を作り出すのだという 作業に没頭していたところふいに猫の鳴き声がしてFは我に返気がつけばFの隣で猫が座ていた全く気がつきませんでしてかなり大きな猫でしたよ腕で抱えるのもやとなくらいでとはいえどう見ても家猫の類の顔つきをしていましたおわかりでし 獣とあの甘たれた顔の中間くらいのものですよそしてなんと言てもあの毛並 赤茶色と黒と白銀色が見事なまだら模様を作立派なものでした今まで見たこともないような大理石を砕いて混ぜたような柄で︱︱Fは語る その雄猫は意味もわからぬくせに金の目でしげしげとキバスを眺めていた画材をひくり返そうものならすぐさま追い払うつもりでいたが非常に大人しくいつまでも同じ場所に座り込
んでいたためそのまま日が暮れるまで一緒に絵を描いていたそうそうしているうちにFはこれほどの猫ならハロルドの遊び相手にちうど良いのではないかと思いついたという パトリシアは書き物を止めて目を上げたよほど大人しかたんでしうねええそれはもう︱︱図体のわりには鼠一匹捕まえてきませんでしたよ その雄猫を連れて帰るとハロルドはその友人をたいそう気に入また猫の方も息子の背後をどこまでもついていくという睦まじい姿が見られたFは安心していたしかしサラの方は違なんだか気味が悪いわサラは生来いろいろなことを心配するたちであハロルドを寝かしつけたあとチンに立ているとあの猫が椅子に座て金色の目で私をじと見ている猫なんてそういうものじないか獣じみたまだら模様にあの大きさだから不気味にうつているだけだよだけど普通じないのではないかしらそれにあの金色の目まるで何か機会を伺ているようなねえ猫が獲物を見るときの目を見たことが 妻の話はこうだ山鳥の肉を捌いている時のこと何か気になて背後を見てみれば例のまだら模様の猫が椅子から身体をこぼさんばかりに座り込みじろじろと妻を眺めまわしていたという体の大きさにあた歯の間から真赤な舌で口の周りをなめとり鼠など軽々と踏みつぶせる太い前脚で手をこまねくように擦りあわせていたそれを見た彼女が思わずキと悲鳴をあげるとだら模様の猫は何事もなかたようにその場でうずくまりわざとらしく寝息を立て始めたそうだ
考えすぎだろうおまえは肉をさばいていたんだそりあ腹が減ていたらまな板の上の塊が気になるだろうさ 妻は何かを思い出したのか青ざめた顔で首をふあなたは知らないんだわあの大猫が坊やと遊んでいるとき供の小指ぐらいの大きさの牙であの子の服に穴をあけたことをれたら偶然そういうことも起こるよ動物なのだからそれにほらごらんよ現に息子は傷一つないじないか今思えばFはまだら模様の猫にいやに肩入れをしていたようだというのも彼は絵を描いている時一人でこもている時が多かそんな時柔らかな毛のこすれる足の感触に慰められていた猫は彼の前では非常に大人しく絵を描いている間はいつまでもそばにいてくれた しかし彼の妻は謎めいた恐怖に怯えていたそうだとしてもあんな大きな猫に襲われたら私たちひとたまりもないでしうねまるで魔女の猫よ まだらの猫について話し合たその日の深夜Fは酷くうなされ夢を見ていたんですFは深いため息をついて言んな風に始また夢かは曖昧です夢とはそういうものかと思いますがかなり息苦しかたことは憶えています 悪い夢だたようだ暗闇で爛々と輝く一対の瞳がどこへ逃げても追いかけてくる︱︱口に出して説明できることといえばそれだけだそのときがれた男の声が耳元でしましたお前が誰かをている︱︱他にも何か呪詛めいたことを言ていましたが言葉は思い出せませんあまりの苦しさに夢うつつで目を開けると私の胸の上で黒い塊がぴと飛び上がりそれは音もなく床に落ちるとベドの下にもぐり込んだのが気配でわかりました影のよ
うに恐ろしく素早かたんですそれで目が覚めました頭から氷水をかけられたかのように肝が冷えましたよ Fはその時のことを思い出したのかブルと身震いした何故かというと私は確かに見たんですあれはまだらの猫の姿でした私の胸の上にどかと座り金色の両目で眠る私を鋭く見下ろしてぐいぐいとのどの付け根を押していたのですそれは猫の戯れで夢にうなされていたから過敏になているだけだとなたは思うに違いありませんね私だてそう思たでしすがね起きて喉を触り生温かな血を手のひらに感じればそんな考えは消えてしまいますよた爪が刺さていたのでねはすぐさまベドの下をのぞき込んだがそこにはがらんとした隙間あるだけだ部屋を見回してもどこにもそれらしき姿はないすぐさま彼はまだらの猫を探した猫は暖炉の前で平然とした姿でまだら模様を膨らませたりしぼませたりしてぐうぐうと寝ていたそうだ Fはその日以来妻と同様不気味な気分を頭にこびりつかせていたものの一旦飼た手前猫を追い出すことが難しかたといハロルドは彼と同じサイズもある猫と兄弟になておりまだらの猫のほうも面倒見が良か息子がおもしろ半分でしぽを掴んだり耳をかんだりしても嫌がらずとりと目を閉じていそんな関係なものだからFがまだらの猫を捨てると子供に噛んで含めるように伝えたときは大変な騒ぎになハロルドは酷い癇癪を起こして泣き叫び暴れ手当たりしだいに物を投げれんばかりに叩いた度々彼の息子はそういう状態になるのだがそのときばかりはFも手がつけられなかたという夫妻にとは獣でもハロルドにとてまだらの猫は無二の友なのだ当の猫は怒り狂う息子を窓辺でじと見ていたまるで人間という生き物は滑稽だとでも言わんばかりの冷淡な顔であその時は
がハロルドをなだめすかして丸くおさめたのだが以来まだらの猫を息子から取り上げるのが難しいほど彼らはべたりとくついて片時も離れなくなたという 夫妻はまだらの猫を気味悪がていたものの飼い猫と子供を二人きりにさせないためにたえず目を離さないようにしたそうはあても不意に何かが起こることがあるようでハロルドが大泣きしてサラに抱きついたことがあまだうまく言葉が喋れなかたためさぱり要領を得なかたがどうやら庭の外に何かあるのだという泣きじくる息子を抱えて見に行くと彼はアと声を上げた庭で犬がひくり返ているんですあれは隣の家で飼われていたやつで名前はアンブルと言いました猟犬のように頑強な体をしていました人の顔をすぐに覚える愛想の良い性格で我が家に猫が来る前は息子のお気に入りでしたそのアンブルが庭で死んでいたのです酷い形相でした充血した両目をこれでもかと見開口の端から長い舌をだらりとさせそれが地面まで垂れていました首は抵抗したように捩じれて仰向けに倒れているんですうやら喉笛を噛み切られたようでした赤黒くなた首回りから血がぽたりぽたりと雫のように落ちていました一体どんな恐ろしい獣にやられたかです︱︱まだらの猫ですよ Fが駆けつけた時彼の飼い猫はくり返たアンブルの胸に腰かけしげしげといた風に死骸を見下ろしていたというくFの声にまだらの猫はバとふり向いたその真赤に染ま顔を彼らに見せた後猫は風のようにその場から去たそうだアンブルが我が家の庭にいた理由は別段不自然なことではありませんアンブルは時々一匹でうろつくやつでしたから出歩いているうちに迷い込んだか何か気まぐれでやてきたのでしそれより我々が疑問に思うのはどうやて猫が犬を殺せるのか
ということなんですいくら人間の子供のように大きな猫とはいえアンブルも大きく逞しかそれに猟犬のような体つきをしたアンブルを我々に気が付かせぬまま絶命させることなど到底無理な話ですマクミ丨ルとはかなり揉めましたよ隣に住むアンブルの飼い主のことです私がやたのではないかと疑われもしましたが︱︱どだい猫が犬に敵うはずなどあるはずがないそれが常識なんです︱︱結局のところアンブルが息子になにかちかいを出してた猫がその喉笛を噛み切たのではないかということで話がつきました少々の弁償金とともにその晩マクミ丨ル家から戻るとまだらの猫はやはりいました昼間の騒動などなかたかのように毛には一滴の血もついおらず廊下の影からじと私のことを見ていました妻は怯えていました誰も猫に触れていないといいます息子は相変わらずまだらの猫にべたりです私は考えましたもはや私たちには穏やかな手段など残されていないように思われました 猫は時々とりつくろたように甘えた声を出したが白々しく彼は感じていたそして度々夜中に息苦しさと男の声で目が覚めて部屋の隅にさと逃げる黒い影をかいま見たような気がしたという夜は安全に眠る時間ではなくなていた    それから三日後のことだ夏も終わりに近づき少し風が冷たくてきたがまだ太陽の暑さが残る季節︱︱Fと息子は二人で家の裏手へでかけた彼の妻は街へ赴いていたため彼が仕事をしながら息子の面倒を見なければならなかたのだ妻は出かけ際肩掛けをしながら険しい顔をしてくれぐれも息子から目を離さないようにと忠告して出てい庭の裏手では草原が広くその次に
大きな湖があり最後には深い森が一種の領地のように真横に続いていた湖面は風でそよぎすらと波が光り大変おだやかでうつくしい風景であ陽光で灼けた草原をハロルドと二人で歩いていると背後でかさかさと足を踏みならす音がしたので振りてみれば飼い猫が静かについてきていたと強く追い払たが猫は図々しいような顔つきで彼らの後ろを少し遅れて歩いもう彼にとてまだらの猫は飼い猫ではなく大きな獣畜生と同然のように感じられていたのだFは目当ての場所にたどりつき仕事道具一式を広げて腰を下ろしあの獣をどうするべきだろうか︱︱彼はそう考えていた夜は満足に眠れず目の奥では鈍痛がしていたあれから猫は大人しいものだのん気な様子で伸びをしてすまし顔で毛づくろいをわきまえたように息子と距離を取まれにFの足元にまとわりついては餌を要求した全くよくできた〝猫〟だ Fがまだらの猫に考えを巡らせながら筆をキンバスに乗せている間彼の息子は湖面を手で弾き水しぶきを飛ばして遊んでいたまだらの猫はといえば草むらで羽虫を追いかけているようだともあれこれだけ彼らと近くにいるのだからとFは自分の仕事に集中し始めたいくばくかの蓄えがあるとはいえ彼の新しい作品を発表しなければ一家はいずれ立ちいかなくなてしまう それからどのくらいの時間が経ただろうか︱︱不意に目を上げるとハロルドは何か捕まえたのか大喜びで小さな腕を掲げているところだ名前はわからないが土色の昆虫であ六本の足を不規則に動かして子供の手の中でもがいている肉の枷から逃れられる術はないその時虫は必死の抵抗でハロルドの皮膚を刺した彼の息子はワと声を上げ地団駄を踏んだこいつが刺したんだこいつが刺したんだ︱︱そんな調子でハロルドは昆虫の
脚をつまむとそのままぷつりと一本もいでしま三本と二本の非対称になた脚はそれでも動きを止めなか Fはその光景に言いようのない衝撃を受けた何故今まで忘れていたのでしう︱︱子供の無邪気な心︱︱私はハロルドの戯れを見て落雷に打たれたかのようでしたその場でしばらく棒立ちしたくらいです︱︱神よ情けをかけたまえ︱︱私の子供の頃の恐ろしい出来事︱︱いや私の恐ろしい行い 何故忘れていたのか︱︱ Fは今にも気が触れんばかりにぶるぶると身体を震わせ支離滅裂になていたどうか落ち着いてくださいお話はもう結構ですからしばらくお休みになてはいかがですかミスタ丨・F︱︱ただならぬものを感じたパトリシアはすぐさま駆け寄たがその時彼は節くれ立た手でパトリシアの腕を強く掴んだ椅子から身を乗り出し激しい興奮で目を飛び出させている︱︱まぎれもなく恐怖によるものだ歯の根は合わず乾燥した皮膚の目立つ唇が震えうねる髪が青白い顔にはりついていたいえどうか聞いてください後生ですからFは懇願した当時の私は何もわからぬ子供だたんですあの時ミサのあた日の午前教会の墓地に住んでいた三匹の仔猫と遊んでいまし猫たちも私も母親の目はなくそばには教区の誰かが置いてたであろうミルクの入た深皿がありました仔猫たちは遊びに夢中でしたそのうちの二匹がかかんに私の腕に挑み残りの一匹は少し離れた草の上で座り込んで兄弟たちが奮闘しているのを見ていました最初のうちはよかたのですしかししばらくすると私は猫たちの仮想の敵として彼らの相手をするのに少々飽きてしておりそれどころか激しい交戦に苛立ちを覚えていました私の五本の指が宿敵であるかのように何度も飛びかかてくるので
執拗にですええそうですもうおわかりでしうね ハロルドの癇癪はまぎれもなくかつての私のものだたのです︱︱突然腕に痛みが走り私は仰け反りました立ち上がり皮膚を走る赤い筋を見て彼らはル丨ルを破たのだと激しい怒りを感じましたとした私はまだなお腕にしがみついて牙を立てる一匹を引き剥がし振り払い︱︱強く振り払い︱︱その猫は落下してミルク入りの深皿にぶつかりました不幸にもその深皿は粗末でしたがほとんど石できたかのように頑丈でしたそんなものの縁に強く頭をぶつけて無事な仔猫などおりますまい猫のくせに何故上手く着地できなかたのか疑問に思われますか 私にはわかりませんただはきりしているのはその時頭を打たシクで仔猫は深皿の中で狂たように痙攣しミルクの中で溺れ死んでしまたということです皿の周りは白い液体が散乱し近くで座て呆然と見ていた兄弟猫の体にも降り注いでいました残る一匹が私に向かてシと叫びましたそして事もあろうに私の足に凄まじい勢いで噛み付いてきたのですその小さな顔を悪魔のように歪ませて︱︱今ならありありと思い出せます生まれて初めて他者から憎悪を向けられた私は恐怖を感じ咄嗟に壊れた墓石の一部を拾いました思い切りぶつけましたよもうあなたに隠すことなどありませんね 私は仔猫を始末する気でいたのです私はすでに一匹の兄弟猫を殺してしまたとえ事故であろうとどうして動物にそんなことがわかりますか 理由など些細なことです殺したことには変わりません皮肉にも私の五本の指は本当に猫どもの宿敵になてしまたのです猫どもは私が兄弟を殺したのだと理解していました殺人鬼だと猫の言葉で叫んでいましだから私は本能から恐怖を感じてそうせざるを得なかたので投げた途端という悲鳴とともに石の下で何か潰れる音がしましたですがその猫はまだ生きていましたぽい
毛に血をからませてよろよろと石の下から這い出してその場から逃げようともがいているところでした頭が半分潰れかけているのに何故動けるのでしうか ここまで来てしまてはもう放おくことはできませんせめて楽にしてやる義務がある︱︱私は半ば恐慌状態でした理性など消えほとんど恐怖の言いつけに従うまま猫を追いかけ何度も何度も猫の頭に石を叩きつけました蓋が割れ脳漿が飛び散り石が赤く染まるまでそのうち仔猫は四肢をひくつかせたり動かなくなりました私は顔についた血をぬぐい最後の一匹を見ましたミルクの白い液体と兄弟の血潮でまだら色に染また猫がそこにいました猫はじと私を見ていましたただ座り込んで見ているだけでした大人しいやつだたので殺すのは難しくないと思われました私は石を振り上げましたその時︱︱ああそれがもと早ければ私もこのような凶事は行わなかたのに︱︱私の母親が教区の仲間内のおしべりを終えて私を呼びつけていました石とミルクと血で嫌な匂いのする猫たちを見比べた私は手の中のものを草むらに捨てました母親の待つ教会へと走て墓地から去る間際猫の悲しげな鳴き声がしました私は振り向きました最後の一匹が死んだ兄弟の元へ体を寄せ舌でいたわるように舐めているところでした頭が潰れ毛皮に血潮を染み込ませた亡骸を丁寧に舐めとていました地ではずと猫の鳴き声がしていましたが私は全てに耳をふさいで教会の中へ向かいましたそれからひと月経ち私たち一家はロンドンに越すことになりましたあの猫たちの悲劇のせいでし 両親はもういないので確かめようがありません以来私は自分の記憶に鍵をかけてポケトにしまい込みました 不気味な沈黙がおりていたFはパトリシアの腕を握り込んだま離そうとしないそれで彼女はおずおずと言あなたは何をおりた
いのですか Fは血走た目を向けたわかりませんか 〝まだらの猫〟ですよ あの模様あの色使いあの時のままだ︱︱私が殺し損ねたあの時の猫が再び私の前に姿をあらわしたのですけれど少なくとも三十年は経ているのでし 猫の寿命では考えられませんわそれに毛並みだ本当は違たのでし Fは唸り自分の爪を噛み始めた椅子に座りながらドンドンと足を踏みならしているパトリシアは彼からようやく離れることができたが人を呼ばなければならないようだと考えていた呼び鈴は扉の前のお飾りの机の上にある今から出口に向かうには不自然すぎた Fは突然私の息子はやつにさらわれたんです そして殺されたんだと叫んだなんですパトリシアは思わず聞き返したあの非情な獣に命を奪われてしまたんですFは立ち上がり大声でまくしたてた何もかもすかり思い出した私はクのあまりその場で心を失ていました︱︱その隙にやつがハロルドをさらたんです 気がつけば周りには私と仕事道具以外になにもなく猫と息子は忽然と姿を消していた︱︱村をあげて何日も探しましたよ見つけたものは恐ろしい事態を暗示していた︱︱血の染みのついたハロルドの衣服の残骸と靴が片方そして子供の左足の大腿骨があの湖に浮いていました 彼は顔を覆て力なく座り込んだ妻とともに涙を枯らしたその晩悪夢を見ました馬車のような巨体のまだらの猫が息子の首根をくわえて今にも立ち去ろうとしている夢でしたあの黄金の目は燃えるようにギラギラ輝き完全に息の根を止めてしまた獲物を運ぶようにしりと牙を息子
の喉の肉に食い込ませて獰猛な笑みを私に向けていましたハロルドは︱︱ああかわいそうなハロルドよ︱︱彼はもげそうなほど頭を背中にそらし両手両足はだらりと地面に垂れ下がていましたお前なのか私は夢の中でそう叫びましたまだらの猫はきびすを返し闇の中に消えていきました息子も猫もそれきりです私たちは悲しみに耐えられず都会に戻りましたが結局妻のサラは家を出ていきました彼女を責めることなどできません私が目を離さなければこんなことにはですがお話はこれで終わりではないのです私はハロルドの失踪と妻との別居そして自分がしでかした過去の罪を同時に受け入れなければならなくな頭がおかしくなりそうでしたあの時のまだらの猫が復讐に燃えて私の前に再び出てきてもなんら不思議ではありません夜眠ているとどこからともなくする猫の鳴き声に起こされました絵を描いていると足下にするりと毛をこすりつける感触がしましふと目を上げると部屋の隅をあのまだら色がよこぎるのを度々見ましたあの悪魔の獣は紛れもなく私の魂を狙ているのです私は酒に溺れました友人の少ない私が頼れるものといえばもはやそれくらいなものですそしてある夜行きつけの酒場で飲んでいるとその知らせが飛び込んできました妻が︱︱サラが街で事故に遭い今や一刻を争う状態だというのです私は酔いから冷めすぐさま彼女の元へ急ぎました妻は変わり果てた姿でベドで横になていました頭や身体は包帯でぐるぐるに巻かれそのくせ目をカと見開き天井を凝視していました恐怖の瞬間を凍らせて寝かせたような有り様でした医者の言うことにはサラは急いで帰宅する途中〝不慮の事故〟で馬車から投げ出されたというので頭を強く打ち暴れる馬にめちくちに踏まれ苦しみのうちに亡くなたと聞かされました老いたサラの母親が悲しみにうちひしがれドにしがみつきその肩をサラの兄が支えていま
したサラの友人が部屋を出ていく前に私の肩を叩き何かお悔やみの言葉を口にしていましたが呆然と立ち尽くす私の耳には届いていませんでしたそのときふと医者や看護婦に混じり御者とおぼしき男が帽子を胸の前でくしくしに握りつぶしているのが目に入りました私は彼の姿を認めるやつかつかと近寄りの胸ぐらを掴みあげましたわめき暴れる私を医者やサラの兄が必死で止めてくれなければ今日この場に私はいなかたでしうね御者の男は泣いていました本当に事故だたんだどうか許してくれ何かが突然飛び出してきて馬に襲いかかたんだまだら模様の大きな獣だそのせいで馬は暴れて馬車がひくり返たんだと床に膝をついて許しを請うていました私は気勢が削がれ︱︱それどころか体中から血の気を引かせぶるぶる震えましたあの悪魔は何が何でも私を苦しめ不幸のどん底に落とすつもりなのだとそのとき悟りました直接私を殺すのでは割に合わないというのでしそうに違いありませんでなければうしてハロルドやサラの命を狙う必要があるというのでし かわいそうに彼らは私に対する復讐の犠牲になてしまた︱︱そうして私は病院を飛び出しあてどなくさまよいドクタ丨・ブクハウスの元へたどり着きましたあなた方は精神医でありながら世の論理では片付かない事例も取り扱ているのですよね どうかお願いですミセス・ロ丨ウン︱︱無垢の命を殺めた私では今更教会になどいけませんあなたがたが頼りなのです︱︱私はいたいどうすれば Fはそこでと部屋の角を振り向いたそこには学術書がぎしり詰また本棚とカ丨テンが暗闇の中で薄ぼんやり形を浮き立たせているだけだまだらの猫がいるFはうわごとのように呟いたパトリシアは燭台を手にとてその方角を照らしたが当然のように何もなか
パトリシアがFに目をやると彼は椅子から立ち上があなたには聞こえないのですか︱︱ほらまた鳴いた︱︱なんて恐ろしい鳴き方をするんだろう︱︱ああ猫がいるぞ︱︱ Fは隅の方を指さす棚の方から暖炉の方へ歩いているではないですか なぜ見えないのです さあしかり目を開いてよくごらんなさい パトリシアは明かりを巡らした︱︱そのとき彼女は後にも先にも二度と忘れられないほど身の毛のよだつものを見てその場で釘付けになてしま燭台の明かりに照らされて影になたソフの裏側から獣のような大きな影がむくりと身体を起こしたのその黒い物は音もなく歩き灯影から灯影へと跳び移る姿を壁に投影させた影は暖炉の張り棚へひと跳びすると狩りをする狡猾さで彼らを見下ろしていた人智を超えた存在の力によるものか︱︱暖炉の炎が激しく燃え始め火の粉が天井に届かん勢いではぜていたそれが獣の影と重なて奇態なまだら模様を作り出しい首がせせら笑うように上下に動いている化け物め Fは懐からさと拳銃を取り出した引き金が絞られると同時巨大な影が牙を向いてFに襲いかかパトリシアが驚く間もなく雷に打たれたような音が邸宅を揺るがした強風がカ丨テンを暴れ狂わせ大粒の雨は絨毯を叩きつけている遥か彼方から地響きのような男の笑い声が聞こえた気がした パトリシアはよろよろと椅子にすがりつきどうにかこうにか立ち上が先ほどの大火事のような暖炉の火の勢いは嘘のように穏やかになていた焦げ跡一つついていなか Fは︱︱パトリシアは窓枠に急いで近寄り身を乗り出したは窓を突き破てここから落ちてしま彼女は大声で彼の名を必死に呼んだが吹きすさぶ雨と強風で全てかき消されてしま
それに水かさが増して地面が見えない︱︱とても暗い︱︱何も動くものがない大雨が目を打ちつけているFが無事かどうか覗いたぐらいでは到底わからなか マリ丨ウルや使用人たちが大慌てで部屋に入てきた一体どうなさたのです︱︱怯えた顔で言うマリ丨ウルにパトリシアは叫んだ人を呼んで︱︱庭を探して 人が落ちたわ 今から私も行きます︱︱さあ早く   パトリシアがこうして語る間ライムリク卿とセシルは黙耳を傾けていたセシルなどは息をするのも忘れているのではないかというように口を覆たまま固まていたそれでそのFという男は庭で見つかたのかねライムク卿が静かに訊ねるパトリシアは首を振いいえの中みなで必死に探しましたがFがそこにいた形跡は何一つ見つけることができませんでした水をさらたり棒でつつき回したりいろいろ手を尽くしたのですが大嵐の中で長時間の捜索を行うのはとても危険が伴いましたしまいにはもうこれ以上してやれることはないと引き上げるしかなかたのですそうして続けることには夢か現実か定かではありませんわ︱︱Fの混乱と行動力に惑わされてありもしないものを見たと思い込んでしまたのでし ドクタ丨・ブラクハウスならそうおるかもしれませ今は彼の無事を祈るばかりです 卿は紅茶を一口飲んだあとパイプに煙草を詰めなおしてマを擦何度か吸い込み火をつけたライムリク卿はふうと一息つきそれから執事のジドをそばに呼びつけ小声で何か指示を出していたドは静かに部屋を出ていく数分後彼は他の使
用人と一緒に大きな額縁を二つ携えて戻てきた話を聞いていてねもしやと思たのだが︱︱そのFという男はこれのことではないかねまあその絵はセシルは驚きの声を上げたこの家にあたなんて知らなかたわドたちが持てきたものは例の死と婚礼を上げる花嫁苦悶する聖職者の油彩絵画だ本物だよと卿はパイプ煙草から口を離して言この絵の前の持ち主が何か妙に気味悪がて私に売りつけてきたのだ酔いと食事に気を良くした私は勢い余て購入したのだがまあに飾るにはちいと〝辛気臭くてな〟物置に保管しておいたのだよ パトリシアは目を丸くして驚き呆れていたまさかこんな近くに彼の油絵があるとは想像もしていなかたのだそれでどうしてわざわざここに持てきたかというとだねライムリク卿は言昨日その前の所有者であるロンヴル卿が訪れて︱︱彼は別の件で私に用があたのだが︱︱ふと卿は思いだしたかのようにこの二枚の絵について私に訊ねてきたのだよそれで二人してしげしげ眺めることになるのだが私はロンヴ卿に聞いてみたこの絵の一体何が気に入らなかたのかとそうすると彼はしばらく黙たあとこことここだよと絵の一部を指さしたのだそらお嬢さん方にも教えよういわくこことここらしいよロンヴル卿曰く不自然に気味の悪い生き物がいないとのことだうむ確かに彼の言うとおり何かいるようだ思うにこれは猫に見えないかね 丨ルを被りうつむく花嫁その奥の壁のところに染みのようなものが貼りついている猫のような輪郭がこちらを伺い見るようだもう一つの方は床で苦しむ聖職者の影に潜むようにして色が乗せてあるこちらも獣がうずくまているように見えた
寓意にしてもさり気なさすぎる卿の言うとおり不自然なのだどうしてこんな絵を遺したのか私にはさぱりわからん知なる存在が画家の指先に宿てしまたのかとライムリク卿は言 パトリシアは気になて彼の言葉を繰り返した〝絵を遺した〟とはどういうことでしうか ああと卿は頷くFは死んだよロンヴル卿が教えてくれただからやつもこの絵が見たいなどと言い出したんだろう︱︱卿が言うことには嵐が過ぎた翌日ここから遠く離れたノルウントンという村の近くで木からぶら下がていたそうだ地上から5m離れた高い場所で喉に折れた木の枝を貫通させてそのままゆらゆら揺れていたそうだどうしてそうなたかはわからんが死体を下ろしてよくよく調べてみれば一時期もてはやされたかの有名な画家というではないそんな尋常ではない死に方だたおかげでロンヴル卿の耳にも届いたそうだよそこまで言てライムリク卿はしまたという顔をしたセシルは今にも気を失いそうなほど青ざめていたからそんなことてあるかしらセシルは震える手でパトリシアの手を握どういうことなの パテあなた一体を見たの 本当にそんなことがあ あなた夢を見ていたのよね だて一晩でそんな遠くへ行くことは不可能ではなくて 馬があても三日はかかる場所よそれにどうしてそんな風に死んでしまたの私にもわからないわでも確かに二週間前あの方は訪ねてきたわマリ丨ウルも他の使用人も彼の姿をきちんと見ている濡れたタオルだ飲みかけの紅茶だ銃弾の痕だていたのよ
わたし本当に怖いわセシルがそう言たその時︱︱二人の間で丸くなていた真白な猫が起きあが大きく体を伸ばした猫は寝椅子から軽やかに降り優雅な様子で白い尾をふりふり扉へ歩いてい 三人と使用人たちはブランシを黙て見ていたがライムリク卿が口を開くともあれもう彼の絵は処分しまおうと思うんだがどう思うかなセシル あのような話を聞いてしまた以手元に置くのも気が引けるよFという男聞けば聞くほど酷い冷血漢だと思わないかね 自らの臆病さのせいで被害者意識に逃げ込み無垢なる命を無残に殺してしまたのだFとは生来そういう男だたのだよ自らが手にかけた生き物に対して言い訳ばかりしていたではないかか弱い自分が誰よりも可愛かたのだたまたま殺した相手が猫だただけなのさいくら素晴らしく腕の良い画家でもそのような卑劣な人間の描くものに果たしてどれほど意味があり価値があるというのか もちろんFの家族には同情するがね子供や妻への愛は本物だたのだろう︱︱そして猫の兄弟への愛も本物だたのだ恐ろしいくらいにねさて結論としてやはりこの絵は捨てるべきだと私は思うこんないわくのあるものを世に残しておいてはいけないのだ金額がつり上が世間がつまらなくなる前にな セシルは目の端に滲んだ涙を拭死んだ方や遺族の方を思うと私は言葉もございません絵はお母様とよく話してお決めになてはどうかしらライムリク卿はどうせ私と同じ意見になるだろうよ絵をホ丨ルへ運ぶように執事に言いつけた ブランシは扉の前で大人しく座ていた油絵を抱えた使用人たちがぞろぞろと部屋から出ていくのを見送ている︱︱執事のジドを除いて使用人たちが一人残らずいなくなたとき猫はパトリシアを振り返るエメラルドに輝く瞳で彼女を見つめ
りと親愛の瞬きをし小さくにおんと鳴いた 


【2017/07/29 更新】

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