縦横切り替え

 別段、それはジャック・L・ステイカーにとって珍しい出来事ではなかったが、少なからず意外な結末を迎えることになった。機関の内勤職員である日系女性がステイカーに惚れ込んでいたらしく、彼女がオークランド支部に異動する一週間前の今日、ひそかな思いを打ち明けてきたのだった。驚かないわけではなかった。その女性とは知り合って半年ほどになるが、ステイカーにとって彼女は数少ない趣味友達だった。時間外の食堂の調理場を一緒に占領して美味いラザニアを作るためにリコッタチーズを混ぜているときや、ニッカ・ボッカ・グローリーの作り方を教えているとき、彼女の心の半分は料理とは全く別のことに費やされていたらしい。そうだったのか、と思いながらステイカーは相手のたどたどしい言葉を静かに聞いていた。実のところ本人に直接言われるまで彼はその思いに全く気が付いていなかった。
 彼女のアメリカ英語は饒舌ではないものの、真剣で純粋な思いに満ちていて、もはや思い詰めていると言ってもよかったが、聞けばどんないい加減な男も真面目に考えずにはおれない、そんな内容だった。それで相手が何もかもを言い終わったあと、長い沈黙を挟んでステイカーも真摯に応えざるを得なかった。その気持ちはとても嬉しいが、きみとそういう関係になるのは無理だと思う、云々。
 全く散々だった。おかげで友人を一人失った。相手は赤かった顔をみるみると青ざめさせて、それでもなんとか笑顔を見せながら、逃げるように厨房を去っていった。ステイカーは泡立てている途中だった生クリーム入りのボウルに目を落とし、今日はもうやめにしようと自分に言い聞かせた。それから大人しく寮に戻ってシャワーを浴び、自室で横になった。しかし、罪悪感に苛まれてひとつも休むことができなかった。
 はじめに言ったが、ステイカーにとってこれは別段珍しい出来事ではない。だがよくあることとはいえ、いつも良い気分で終わるものでもなかった。大抵は、とびきり後味が悪いものだった。
 そういうことがあり、三十分後、彼は再び身体を起こし、あてどなく夜の外出をすることになった、というわけだ。
 まさか、その夜風に誘われて歩いた先に、サンクチュアリに会うとは彼も思っていなかったのだが。
 元々大学を運営する予定の敷地内に無理やり訓練所を作ったような場所だった。寮を出れば山の中に入ることと一緒だ。舗装された道はあるが街灯に乏しく、月明かりが頼りだった。野鳥の囁き、暗い樹木、都会とはかけはなれた輝く夜空……そういったもので頭を冷やしながらぶらぶら歩いていたら、昼間であっても滅多と人が来ない小さな泉のそばに、日傘をさした女がいたのだ。真夜中に日傘をさす者など彼女以外にいないだろう。サンクチュアリの姿を見るのは二週間ぶりだった。
「自分でも馬鹿げていると思うのよ」サンクチュアリは言った。ステイカーが足を止めてすぐのことだった。彼女は満足に振り向きもせず、傘の布付をこちらに向けたまま、低い鼻先をわずかに見せている。「でも、習慣なの。外に出る時はいつもこうだったから……」彼女の声は朽ちた教会に残されたステンドグラスの輝き、氷の彫像の凍えた口から出る甘い囁きのようなものだった。いついかなるときも涼しげで、現実とはすこし違う場所にいるように聞こえる。
「こんばんは、サンク」ひとまず挨拶を挟むのが彼の癖である。「……ここで何してる?」
「何も」と、サンクチュアリ。彼女は振り向いた。黒髪が揺れる。その下で、ぞっとするほど青い目が彼を見ている。「今は人間の時間ではないでしょう。あなたこそここで何をしているの」
 ステイカーは道を外れて泉の方へ歩いていった。物寂しい場所だった。ほとんど使われていないベンチに腰を下ろし、ため息を吐く。
「こんな所に来る物好きは俺だけかと思っていたよ」
 水面に月影がさしている。虫の声がわずかに聞こえ、後は風の音が時々草の中を駆け抜けている。「気晴らしに来ただけだ」ステイカーはそう言ったが、サンクチュアリは大して彼に興味がないのか答えはなかった。
「この泉」と、彼女は唐突に言う。「生気がないのね。かといって、死のにおいもしない」ステイカーも泉を眺める。水面が風で波立ち、月の形が崩れていた。
「無があるだけ。本当は、ここには何もないんだわ」
 ステイカーは支部周辺の設計図を頭の中に入れていた。彼はそれを思い出しながら「ああ」と肯定した。「人工池みたいなものだ。元々このあたりは茂みがあるだけだった。それらを全部引っこ抜いて泉を作ったらしい。ここ以外にも似たような場所がいくつかある」
「そうでしょうね。あまりに退屈だもの」彼女はつぶやく。「最近の人間のやることは、よくわからない……」
 ステイカーは曖昧に微笑んで、「そのうちわかるようになるさ」と言った。
 それからしばらく二人で泉を眺めていたが、彼はなんとはなしに口を開いた。
「……なあ、日系人の女性を覚えてるか? サトコって名前だ。一度紹介をしたことがあるだろう。よく一緒に料理を作っていたんだが」サンクが小さく息をつく音が聞こえた。おそらく同意だろう。
「どうも俺のことを気に入っていたらしい。今日それを知った。だが、俺は今まで一度もそのことに気が付かなかった」
 サンクはつと彼を見る。いつもの関心の薄い声で、
「あなた、鈍いんじゃないの」
「俺もそう思う」
 物憂げに言ってステイカーは水面を見つめた。
「……ああいう女性は繊細な男が好きなのかと思ってたよ」
「ハチのような?」とサンク。ああ、と彼は頷いた。
 サトコは身長が一五〇センチ程度の小柄な女性だった。大人しくて何かあるとすぐに顔が赤くなる。しかし、見た目通りなんでもはいはいとついていく性格ではなかった。嫌なものにはきっぱり嫌だという態度を示すので、日本女ならイエスを言うものだと思いこんでいた何人かの男は、幼児に頭を叩かれたかのようにショックを受けることがあった。そういう現場を実際に目にしてステイカーは愉快な気分になっていたものだ。そこで彼は思いだしたのだが、サトコの年齢は彼と同じだったのだ。ずっと年下のように感じていたが今思うとそうではなかった。ステイカーは首を振る。
「あんな風に真剣に打ち明けられたのは久しぶりだった。学生の頃に戻ったみたいだ。それでこっちも真剣にこたえたら、最悪の結果になった。他に言い方が思いつかなかった。残酷に言い過ぎたんだ。今頃彼女は泣いていると思う」
「あなたって最低ね」と、サンク。
「俺もそう思う」と、ステイカー。
 夜風がやみ、青い沈黙が二人の間にあった。
「私がこの場所に来るのはね、ジャック」サンクチュアリはつぶやく。「その木の陰で花が咲こうとしているからなの」
 彼が目を向けると、彼女の立つ隣に古木があるのだが、確かにその足下に若い芽が出ていた。サンクは腰を屈める。レースの手袋に包まれた指が優しくつぼみを撫でる。「あなたもブリテンの人間ならこの花の名前は知っているでしょう」
「ブルーベルかな」
「そう。私にとってこの花は特別なの。古い友人が私のために摘んでくれた花だった」
 古い友人。彼は考えた。それは何百年も大昔のことなんだろうな、と。
「なんでこんなところに?」
「あなたが植えたのかと思った」
「……それは俺でも無理だな」彼は否定した。「俺の見立てが正しければそれはイングリッシュ・ブルーベルだ。法律上、本国から持ち出すことはできない」もし可能だとするなら、遙か昔に祖先がアメリカ大陸に持ち込んだものなのかもしれないが。
 そうなの、とサンクは小さく言った。
「でも、もうダメね」と続ける。「きっと花は咲かない。土地が違いすぎるせいだわ。このまま咲かずに終えてしまうのよ。草が生えているだけなの。これからもずっと」
「時々雨が恋しくなる。向こうに比べれば全然降らない」と、ステイカーは言った。「その花も同じかもしれないな」
 そこで、かねてより聞いてみたかったことを口にする。
「なあ、一つ聞きたいんだが、いいかな」
「なに」と、サンク
「きみは恋をしたことが?」
 そっと相手を伺う。彼女は若草を撫でる手を止めていた。目元は伏せられ、長い睫毛によって視線が半分隠されている。
「いや、変なことを聞いたな。やっぱり今のは聞かなかったことにしてくれ……」推定一六世紀生まれのサンクチュアリに興味本意で尋ねてしまったことが急に恥ずかしく感じられた。
 彼女はしばらくの沈黙の後に「あるわ」と言った。驚いて相手を見る。もう彼女はブルーベルになど見向きもしていなかった。泉のほとりをゆっくり歩き、また身を屈めて、今度は水面を見下ろしている。
「そうか」とステイカーは言った。彼女の心は生まれつき凍りづけなのかと思うほど冷淡で無感動だった。とはいえ今の姿からは想像できないだけで、頭のどこかでは、一度くらい情熱があったのではないかと彼は思っていた。思っていたはずなのだが、実際に素っ気なく肯定されると、意外な動揺がある。
 サンクは泉に手を入れる。手袋が水を吸っていた。
「ええ、あるわ。私にも恋をすることがあったの。好きで好きでたまらなく好きで、愛情と憎しみの境目がわからなくなって、相手を殺してしまいたくなるほどの恋だった。でなければ私が死んでしまうと思ったのよ。随分と昔のことになるけれど」
 ステイカーは何も言えないでいた。サンクはこちらに一瞥もせず、水面で手遊びしている。
「恋ってそういうものでしょう。相手のことなんてお構いなしに自分の欲望の言うとおりにさせたがるの。魂に対する破壊衝動みたいなものよ。それって他人を殺すことと同じ意味だわ。向こうもそう思っていたのね――私を殺すか自分が死ぬか、そのどちらかしかないって。だけど、結局、死んだのは私の方。私は生かされているようだけど本当は永遠に死んだままなのよ」
 彼女は泉の水をすくいあげた。指から水がこぼれている。
「でもね、ジャック。そんなものが何になって? 頭がおかしくなるような恋だって、一〇〇年も二〇〇年も経てばなんにもなくなるのよ。愛も、憎しみも、最後には全部消えてなくなるの。それで、私は理解したのよ。愛も永遠ではないのだって。他人をずっと好きでいることはできないの。でも、愛がひとときのことだというなら、永遠をさまよう私たちはどうやって正気を保てばいいの? おとぎ話では愛によって夢から覚めるものだけど、それは人間の世界の話でしょう。私は愛で現実を感じることができないの。私には狩りをすることが必要だったの。痛みと、血がなければ、自分が身体をもっていることも忘れてしまいそうなのよ」
 彼女に恋をしていなくて、俺は運が良かったと、ステイカーは静かに思った。でなければ自己を破壊するほど苦痛にまみれた人生だったろう。彼女が過去に実感した同じような死が彼にも訪れていたかもしれない。想像だが、過去に彼女に恋をして破滅した男も何人かいるに違いなかった。望もうが望むまいが、残酷な運命に巻き込まれるのだ。サンクチュアリとはそういう女だった。
「……また会いたいか、そいつに」
 サンクはゆっくり顔を上げて彼を見た。切れ長い青い目が見開かれている。少ししてからその目はまた伏せられた。
「いいえ、二度と会いたくないわ」と、サンク。「だって、死ぬのは一度で充分じゃない」
「そうだな」とステイカー。
 彼は立ち上がった。もう罪悪感でうなされることはないとわかっていた。
「俺はもう寝るよ。明日は選抜訓練の実地を見てやらないといけないんだ。今度はどんなやつが来てくれるんだか」腰の汚れを払って道に戻る。全く使われていないベンチだったので砂埃がつもっていた。ああそうだ、と彼は口を開く。「新しいやつが増えてきたから、そろそろ人のいるところに顔を出した方がいい。特にアグニエシュカが――」
 振り向いた。そこにはもう誰もいなかった。夜の中、泉の水面が静かにさざめいている。はじめから誰もいなかったようだ。それでもステイカーは口を開く。目には見えないだけで、きっとまだそこにいるはずだと、そう信じて。
「……アグニエシュカが、きみに会いたがっていたよ」それだけ言うと、彼は寮の方へ引き返した。

なんでこんな話を書いてるんだろうなぁと思いながらメインキャラの関係を探っている。どこかで使いまわししそうな小話……。
【2019/05/12 修正】
【2019/02/07 更新】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です